2010年7月28日水曜日

三菱一号館美術館:女らしさの文化史

                   ミュージアムショップの窓から見た丸の内のオフィス街。

            外に出ると、日がとっぷり暮れていた。

(つづき)

第Ⅲ部は「マネとパリ生活」。
 マネの作品以外にも、19世紀後半のパリの風俗をあらわす絵画や写真、建築物の円柱や柱頭の彫刻が展示されていた。

 オペラ座やテュイルリー宮での仮面舞踏会をテーマにした作品も多く、そのなかでひときわ目を引いたのが、ジャン・ベローの『夜会』だった。http://www.slayers.ne.jp/~luke/winslow/cw240.jpg
 絵に描かれた夜会の華やかさ、美しさは素晴らしく、しばしうっとりと見入ったが、やはり注目すべきは貴婦人たちの、コルセットによって異様なまでに締め付けられたくびれた腰だろう。 コルセットとコルセットによる人体への悪影響については、小倉孝誠の『女らしさの文化史』のなかで詳述されている(解説ではこのベローの『夜会』が、コルセットという風習の好例として紹介されている)。




 蟻か蜂のようにくびれたこの腰は、絵画による誇張ではない。その証拠に同じコーナーに展示されていたアンリ・ルモワンヌの写真『競馬場、観客たち』にも、当時の美の基準に適うよう、腰を(拷問のごとく)人工的に締め付けられた女性たちの姿が写っている。

 常々疑問に思っていたのだけれど、このコルセットで締め付けられた女性の腰は、コルセットを外した時も、かなり変形していたのではないだろうか。 

 この時期さまざまな裸婦像が描かれているが、わたしの知る限り、いずれもごく普通の、ナチュラルにくびれた腰の裸婦ばかりで、人工的に締め付けられた跡などはまったく見られない。 現在の(日本女性の)基準からすれば、当時のフランス女性はどちらかというと豊満なウエストをしていたように思う。 それをあれだけ不自然な形で締め付けるのだから(当時の小説などで気絶する女性やヒステリーの発作を起こす女性が多く登場するのは、コルセットのせいだという説もあるほど)、コルセットを外した場合、うっ血による痣ができていたり、変形していたりしてもおかしくはないはずだ。 

 それなのに変形した腰を描いた絵画を目にすることがあまりないのは、写実主義絵画の隆盛と時を同じくして、コルセットの文化が衰退していったからなのだろうか。 

 纏足(てんそく)を外した中国女性の足の写真を見たことがあるが、グロテスクに変形していて恐ろしいほどだった。時代とともに美の基準も変遷するとはいえ、あれをエロティックと感じるとは……(あくまで裸足ではなく、「小さな沓をはいた」足にエロスを感じたのだと思うが、それにしても沓のなかは膿みただれて悪臭を放っていたというから、人の美意識(ここまでくると、もはやフェティシズムというべきか?)というものは摩訶不思議である)。

 昔、『ピアノレッスン』というオーストラリアの映画で、ヒロインがコルセットを脱がされていくシーンがあったが、これとてヒロインの裸体は、皺ひとつ、痣ひとつない、正常な裸体だった(映像の審美性からそうなったのかもしれないが。ちなみに、このヒロインを演じたホリー・ハンターって、マネの『オランピア』に似ていると思うのは、わたしだけ?)。


         美術館の中庭は噴水もあって夕涼みにぴったり。

     

          復元された昭和初期の趣のある建物。

三菱一号館美術館http://mimt.jp/


                                              

聖女か悪女か:モリゾとムーラン

                         渡り廊下から見た美術館の中庭。

           廊下の窓から見下ろしたカフェのある中庭。 

(昨日のつづき)

第二部には、この展覧会の目玉でもあるベルト・モリゾをモデルにした作品がいくつか展示されていた。 いずれも黒衣のモリゾだが、印象はかなり異なる。

 1868年(日本では明治維新が起きた年)、マネは、ルーブル美術館でルーベンスの模写をしていたモリゾに出会う。それから4年後に描かれたのが、、マネの最高傑作のひとつ、『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3774。 お嬢様育ちで、画才に恵まれたモリゾの、愛らしくも高貴なまなざしと、無垢で清らかな美しさを見事にとらえた作品だ。 

 帽子もドレスもスカーフも、全身黒ずくめで、黒を多用しているのにもかかわらず、斜めから射し込む光とモリゾの穏やかなみずみずしさのおかげで、暗さをみじんも感じさせない。それどころか、画面は夢や希望や生気であふれている。 あどけない表情で描かれているが、このときモリゾはすでに30代。 モリゾそのものの姿というよりも、画家がとらえた彼女の若々しく愛くるしい印象が描かれているのだろう。

 実際、彼女自身の性格はどちらかというと、神経質で、しばしば鬱症状にも悩まされていたらしい。 そうした彼女の内面の奥深さや苦悩を垣間見ることができるのが、『扇を持つベルト・モリゾ』だ。http://www.fineartprintsondemand.com/artists/manet/berthe_morisot_holding_a_fan.htm『すみれの花束をつけた』からわずか2年後の作品だが、まさに黒衣の婦人というべき、憂いをたたえた大人びた表情で描かれている(このときモリゾは33歳なので、おそらくこちらの絵の方がモリゾ本来の姿に近いのかもしれない。ちなみにモリゾ自身は、同じく今回展示されていた『横たわるベルト・モリゾの肖像』を、「最も自分に似ている作品」と語っている)。

『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』はいつまでも見ていたくなるような素敵な絵だが、ややアンニュイな雰囲気を持つ『扇を持つベルト・モリゾ』のほうに、わたしはより魅力を感じるようだ。

 マネとベルト・モリゾとの関係については、恋仲であったとか、いろいろ取り沙汰されているが、本当のところはどうだったのだろう。 マネにとってモリゾは大切な存在だったし、絵からも彼の彼女に対する慈愛の情が伝わってくる。 

 だが、どちらかといえば(これはわたしの勝手な想像であり、願望でもあるが)、モリゾはマネにとって愛おしくも、犯しがたい女性であり、画家としても尊敬すべき相手だったのではないだろうか。 二人の関係がプラトニックなものにとどまっていたからこそ、モリゾはマネの弟、ウジェーヌと結婚して幸せな家庭を築くことができたし、ウジェーヌも彼女の夫として、そしてモリゾの絵の最大の理解者として、結婚後も彼女の創作活動を応援し続けたのではないだろうか。

 いずれにしろ、モリゾは裕福で満ち足りた家庭生活を送りながら、自分の姉や娘をモデルにした温かみのある作品を数多く残している。

 いっぽう、マネが最も愛したもうひとりのモデル、ヴィクトリーヌ・ムーランも画家を志し、1876年にはサロンに入選するが、その後は酒に溺れ、困窮した生活を送ったという。 なんとなく「モンパルナスのキキ」ことアリス・プランを髣髴とさせるエピソードだ。 時代を切り拓いた芸術家のミューズたちの悲しい末路。 だからこそ、朽ちて滅びていく前のその煌めく姿を映しとった作品――画家が切り取ったモデルの人生の一瞬のかけら――には、名状しがたいある種の生命力のようなものが宿っているのかもしれない。     (つづく)

                 

2010年7月27日火曜日

ポーの『大鴉』(マラルメ訳)の挿絵

                                    美術館の廊下の天井。

              各展示室をつなぐクラシカルな廊下。 

(前回からのつづき)
     
 第Ⅱ部は「親密さの中のマネ:家族と友人たち」。
 ボードレールやエミール・ゾラ、エドガー・アラン・ポー、マラルメなど、社交的で才能あふれるマネの幅広い交友関係を伝えるコーナーだった。

 非常に興味深かったのが、マラルメが仏訳したポーの詩『大鴉』の挿絵である。  
 ポー、マラルメ、マネという超豪華メンバーによるこの超豪華仏訳書は、現在60部の現存が確認されており、1部(なんと!)1500万円ほどの値がつくこともあるという。
 この本の出版秘話については『マラルメの「大鴉」―エドガー・A・ポーの豪華詩集が生れるまで 』(バックナム著、柏倉康夫訳著)に詳しい。
 版元社長兼編集者の書簡にもとづいて編集されたこの本には、締め切りをちっとも守らない訳者(マラルメ)および画家(マネ)に泣かされ、書評で酷評され(直訳調だったらしい)、さっぱり売れないまま、刊行の1年半後に版元が破産するというドタバタ悲劇がつづられている。

 ちなみに日本にも日夏耿之介訳、ギュスターヴ・ドレ挿画という、仏版に勝るとも劣らない豪華な『大鴉』が存在する(薔薇十字社版、出帆社版などいくつかの版があるが、最近では2005年に沖積舎から刊行されている。『院曲サロメ』もそうだけど、こういう復刻はうれしい限り)。   (つづく)

  

スペイン趣味とレアリスム:1850-60年代

(前回からのつづき)
             
 第Ⅰ部は「スペイン趣味とレアリスム:1850-60年代」。

 この時期マネは、当時流行していた「スペイン趣味」の洗礼を受け、スペイン的な主題を描いた作品を数多く残している。 
 特に印象深いのが『死せる闘牛士』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3840や『闘牛』
http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3780 などの闘牛シリーズ。

 1965年秋、ゴヤやエル・グレコ、ベラスケスら巨匠たちの作品を見るために、マネは単身スペインを訪れたが、スペインの風土と食事が合わなかったため、わずか10日間でパリに戻っている。その間、闘牛場に何度か足を運んではスケッチにいそしみ、帰国後には、それをもとに残虐かつドラマティックな闘牛シーンの作品を描いた。

 マネが描く闘牛場のシーンは、スペイン特有のあのギラつく日射しと、観客席から立ちのぼる血に餓えた興奮と熱狂、死と栄誉の狭間で敗れた闘牛士の無残な骸(むくろ)が強烈な対比として描かれている。

 いっぽう、『死せる闘牛士』は、もとは『闘牛場での出来事』という群像を描いた作品を、闘牛士の骸だけを切り離したもの(切り離されたもう片方の作品には、まるで闘牛士が復活したかのように、緊迫した闘牛シーンが描かれ、別の作品として仕上がっている)。
 人々の興奮や欲望、憤る牛といった「動」の部分をすべて取り除いた『死せる闘牛士』の画面を支配するのは、完全なる「静」であり、厳粛な死の世界である。 肩幅が広く、胸板の厚い、まだみずみずしい充実した肉体を感じさせるその屍は、一瞬をついて訪れた「死」という厳然たる現実を際立たせている。

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 この時期マネは、お気に入りのモデルのひとり、ヴィクトリーヌ・ムーランと出会う。

 1862年、最高裁判所前の広場の人ごみのなかで、マネは不思議な魅力を持つひとりの女性に目を留めた。以来、マネが引き出したヴィクトール・ムーランの強烈な個性と、マネの斬新な画風と色彩感覚とが相まって、『草上の昼食』(1863年)や『オランピア』(1865年)など、時代を象徴するセンセーショナルな名画が次々と生み出されていった。

 今回の展覧会では、(パンフレットの表紙画にも使われているように)ベルト・モリゾがヒロインとなっているため、ヴィクトリーヌ・ムーランは脇役に徹しているというか、ムーランがモデルになっている作品は少なかった。
 そんななか、珍しく、それほどスキャンダラスではない画題で描かれていたのが、『街の女歌手』だ。http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3857(この画像では赤っぽく写っているため、原画の見事な色彩が映し出されていないのが残念。)
この絵はもともとマネが、ひとりの女性を街角で見かけて、モデルになってほしいと声をかけたが断られたために、ムーランが代わりを務めたものだが、着衣のムーランをモデルにした絵のなかでは最も美しい作品だと思う。

 黒い背景のなかに浮かぶ、暗く渋い緑のドレス。 ドレスの黒い縁取りと、黄色い包み紙、ルビーのように赤いサクランボが、じつに効果的に配され、ムーランの意志の強そうな個性的な顔立ちを引き立たせている。マネの絶妙な色彩感覚を物語る一枚だ。


 このコーナーには、マネの日本趣味が存分に生かされた『エミール・ゾラ』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3812 や、気球や大道芸人など、いかにも19世紀後半のパリらしい風物を描いたエッチングやリトグラフ、淡彩画も展示されていた。  (つづく)
  
                   

2010年7月26日月曜日

Manet et le Paris moderne


 先週の木曜日、丸の内の三菱一号館美術館で開催されている『マネとモダン・パリ』展へ出かけた。会期終了間際だったので混雑は覚悟していたが、平日の夕方だったおかげで、意外にもすんなりと中に入れた(休日は1時間以上待つこともあるそうだ)。

 

         19世紀末にコンドルが設計した煉瓦造りのオフィスビル、
         『三菱一号館』を忠実に再現した美術館の外観。

         内装も忠実に再現されたエントランスロビーの扉飾り。
         弥が上にも期待が高まる。

                                                                                                    (つづく)