2010年4月10日土曜日
夕空 竹喬
仕事がようやく一段落ついたので、会期終了間近の『小野竹喬展』(@東京国立近代美術館)へ出かけた。
竹喬は自然を愛した画家で、草木や海、田園風景を主題とする作品が多く、人物は自然の風景の一部としてのみ登場する。
その情熱は、人間の内面や肉体を表現することよりも、自然の美しさを写しとることに向けられた。
草木の表現が非常に繊細で、何よりも自然から生まれた岩絵の具を用いて表した、青や藍や緑の自然の色が、ため息が出るほど美しく、色がもつ美のパワーに圧倒された。
中には、金泥を下塗りした上から薄明や薄闇の風景を描いたものがあり、近づいて見ると黒い砂の中に砂金が隠れているように煌めいて、その深みと奥行きを感じさせる画中の紺碧に吸い込まれていくようだった。
わたしは若いころ、日本画といえば、美人画が好きだった。
日本女性特有のなまめかしさや嫋さを表現した美人画にうっとりと見入ったものだ。
でもいまは、自然の風景に素直に向き合った絵のほうが心に沁みてくる。
竹喬の絵に描かれた、田畑を耕し、牛を追う人々。その牧歌的な風景の一部と化した没個性的な人々の姿がいとおしく思えてくる。
わたしは、自分という存在や人間の欲望や人間社会に、疲れきっているのかもしれない。
今回は竹喬の10代のころから亡くなる89歳までの作品が展示されており、若いころの素朴で若干粗いタッチのものから、晩年の精緻で洗練られた作風に至るまでの変遷が面白い。
どの絵にも、名誉心とか虚栄心などが一切感じられない。
ひたすら自然と真摯に向き合い、その美しさを自分の力の限り表現しようとした、そのひたむきさや真剣さが伝わってくる絵ばかりだった。
こんなふうに画いて売れてやろうとか、賞を取ろうとか、腕を見せつけてやろうとか、そういった才気走ったところがまったくなく、作家の純真さがさらに絵の純度を高めている気さえした。
竹喬は、晩年まで子どものような茶目っけを失わなかった人のようだ。
パステルカラー調の明るい作品も多く、特に心が温かくなったのが、京の町の灯りをコンペイトウのように可愛らしく描いた絵だった(『日本の四季 京の灯』)。
心にともる灯りそのものの、色とりどりのコンペイトウ――。
竹喬は晩年の80代に芭蕉の『奥の細道』を題材にした『奥の細道句抄絵』を10点残している。いずれも現地に赴いてスケッチ取材したというから驚きだ。
死の直前まで自然を描いた素晴らしい絵を残した画伯の人生は、さぞかし豊かなものにちがいない。
今回の展覧会はいまのわたしにとって究極の癒しとなった。ありがとう、竹喬画伯(そして企画してくださった学芸員の皆さん)。
その後、2階にある美術館のレストランで、持参した薄田泣菫の『独楽園』を読みながら、サンドイッチとコーヒーを食す。
対面する全面ガラスの壁の向こうは満開の桜。
暮れゆく茜色の空を背景に、ぼってりと咲き誇る桜は、それこそ竹喬の絵のように美しかった!