2010年4月26日月曜日

ヘロデヤの法悦――ボストン美術館展


 週末、六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催されている『ボストン美術館展』へ行ってきた。混雑する時間帯を避けて行ったつもりが、さすがに有名どころが目白押しの展覧会だけあって早くも大盛況。かなりの混み具合だった。

 最初のコーナー「多彩なる肖像画」では、ベラスケスやマネ、レンブラント、ドガなどの肖像画がずらりと並び、修復作業によってヴァン・ダイク作と断定された日本初公開の2点「チャールズⅠ世の娘 メアリー王女」と「ペーテル・シモンズ」が特に目を引いた(「ペーテル・シモンズ」では描き直す前の手のあとがはっきりと見てとれる)。

 次が「宗教画の運命」と題するコーナー。ここではフランチェスコ・デル・カイロ「洗礼者ヨハネの首を持つヘロデヤ」が印象深かった。

 王妃ヘロデヤ(娘のサロメではない点に注目!)が恍惚とした表情を浮かべながら、ヨハネの生首から突き出た舌を針でつついている。

 しかもヘロデヤの表情たるや、クリムトの「ユーディット」やムンクの「マドンナ」といった世紀末絵画に見られるファム・ファタール的官能性などみじんもなく、電車内で時折見かける妙齢の女性がだらしなく口を開けた、あの弛緩した寝顔そのものなのだ(恍惚の表情と弛緩しきった表情は紙一重であり、両者を分かつのは、品位と官能性だと改めて実感)。

 美しくも罪深い悪女ヘロデヤと、清く正しきヨハネという善悪二元論的な対比。この絶好の画題がこの表情では台無しである。悪の美を描ききるには、17世紀ではまだ早かったのか、それとも画家のセンスだろうか――。

 いや、考えようによっては、これは生首を持つ美女(サロメあるいはユーディット)を描いた絵画の過渡期的作品といえなくもない。

 15-16世紀のクラナッハやティツィアーノやルイーニでも、17世紀のカラヴァッジョでも、生首を持つサロメあるいはユーディットの表情は聖書に結びついた画題にふさわしく、どこか粛々としており、甘美な恍惚感とは無縁である。

 その後18世紀の啓蒙の時代にはサロメは画題からいったん消えるものの、19世紀後半に入ると、美と退廃のシンボルとして華麗に返り咲く。男を破滅に導く恍惚の表情をたたえながら。

 17世紀までは、恍惚(エクスタシー)の表現は、カラヴァッジョの「マグダラのマリアの法悦」やベルニーニの「聖テレジアの法悦」など、聖人の法悦という形をとっていた。

 本作「洗礼者ヨハネの首を持つヘロデヤ」では、そうした法悦の表情をヘロデヤ(サロメは母ヘロデヤのいわば分身である)の表現に取り込み、来たるべき世紀末絵画の妖女サロメ像を予見した、時代の先を行く作品と位置づけることも可能かもしれない。

 その他、エル・グレコ「祈る聖ドミニクス」やデ・ホーホなどの「光に魅入られた」オランダ(デルフト)絵画、コロー、ミレー、ルソーなど、バルビゾン派の田園や森(フォンテーヌブロー)の絵画、マネ、モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ゴッホなど日本人好みの絵画が続き、マティスやブラックの静物画で締めくくられる。

 会期中都合がつけばまた行ってみたくなるような、かなり見ごたえのある展示だった。