会期終了間近の『ゴヤ』展(国立西洋美術館)にぎりぎりセーフで滑り込む。
ライトアップされた《着衣のマハ》1800-07年 |
展覧会は、自画像から油絵、版画に至るまでの14部構成で、ゴヤの世界がたっぷり堪能できるようになっていた。
目玉の《着衣のマハ》は油絵の中では、やはり飛びぬけて秀逸で、作品自体のアウラがすごい。
「マハ」という名もなき市井の女性から立ち昇る強烈な色香と生命力が画面から伝わってくる。
着衣であるがゆえに、衣服に沿って身体のラインが艶めかしく際立ち、見る人のイマジネーションを喚起する、おそらく裸体以上に官能的で不思議な魔力のある作品だった。
油絵で《着衣のマハ》以外に気に入ったのが、ゴヤのパトロンだった人物を描いた《ガスパール・メルチョール・デ・ホペリャーノスの肖像》だ。
《着衣のマハ》が性的で情動的な作品であるのに対し、こちらは非常に知的で静謐な作品。
《ガスパール・メルチョール・デ・ホペリャーノスの肖像》1798年 |
政治家兼啓蒙思想家らしく、頬杖をついて思索のポーズをとり、自分とゴヤの名前を記した紙片を手にして、画家との深いつながりを暗示する。
その理知的な瞳に呼応するかのように、彫刻が施された贅沢な机の上には書物や書類が無造作に置かれ、学問と芸術の女神ミネルヴァの彫像が立っている。
年齢不詳なこの人物は、どこか神秘的な引力をたたえていた。
人間の知的な側面が強調されたこの作品は、のちの〈戦争の惨禍〉シリーズに見られる理性の喪失や人間の狂気と対照を成すものといえる。
人は、どのような局面でも――たとえそれが極限状態であっても――理性を保つことができるのだろうか。
この問いはたんなる哲学的問いではない。
身近な問いかけとして感じられる今日この頃である。
(いや、問いかけというよりも、すでにそれは反語的な意味合いを帯びているのかもしれない。)
今回、特に惹かれたのが《ロス・カプリーチョス》というシリーズの版画だった。
〈ロス・カプリーチョス〉43番《理性の眠りは怪物を生む》1797-98年 |
「カプリーチョス」とはおそらく英語のcapriceと同じ語源を持つと思われる「気まぐれ」を意味する言葉。
ゴヤ的には、「伝統的な型式や現実の外観にとらわれない自由な発想による創造をあらわす」とされている。
英国のカリカチュア、スペインの風刺文学、民衆版画における「さかさまの世界」に、ゴヤが独自の解釈を加えて視覚化したものであろう。
ブリューゲルの寓意画のスペイン版とでも言える気がしないでもないが、ゴヤらしいブラックユーモアと土着的な信仰(魔女たちの風習)が織り混ざった、興味深い作品の数々だった。
ゴヤ自身はきわめて理性的な人だったように思う。
しかし、魔女や黒ネコ、コウモリやフクロウやロバといった土俗的な信仰・風習に登場するキャラクターや、そこから醸し出される独特の雰囲気に、強く惹かれていたのだろう。
晩年の《戦争の惨禍》シリーズや《闘牛技》シリーズ、《妄》シリーズは残酷で、悲劇と暴力に満ちている。
ナポレオンの侵略戦争やスペインの独立戦争の中で、虐殺される民衆、暴行される女性たち、考察や銃殺される男たち、それを見て楽しげに笑う兵士たち……。
悲劇は戦争のみならず日常生活においても突如として訪れる。
《マドリード闘牛場の無蓋席で起こった悲劇と、トレホーン市長の死》は、観客席にいた市長の肥満した身体が、猛り狂った闘牛の鋭い角に刺し貫かれるという、娯楽の中の悲劇を扱った作品。
この作品にわたしが激しい衝撃を受けたのは、ごく普通の日常が明日にも、今この瞬間にも、瓦解するかもしれないという思いが自分にあるからだろう。
今でさえ、シュールな現実の中に生きているのだから。