今月、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開催される。
国家どうしが決めることだから、おそらく議論の焦点は、経済的な問題(建前上は、薬用・食用など有用な生物資源の保全、実際のところは、生物資源の利益配分をめぐる先進国と途上国の対立)に向けられるのかもしれない。
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本当のことを言えば(こんなことを言うとミもフタもないが)、生物の世界は人間が保全しようがしまいが多様なのであり、たとえ環境破壊が進んでも(つまり人間にとって住みにくい環境になっても)、おそらくそこは、一部の生物にとってはパラダイスとなるだろう。人間から見て荒れ果てた地球にも、多様な極限環境生物(彼らからすれば、人間のほうが「極限環境生物」だろう)が繁栄するにちがいない。
そんな本当の意味での生物の多様性について語った翻訳書が、去年の暮れに出版された。
原題は『Every Living Thing(生きとし生けるもの)』、邦題は『アリの背中に乗った甲虫を探して』(ロブ・ダン著、ウェッジ)。
この「アリの背中に乗った甲虫」とは、肉眼では見分けのつかないほど、宿主のグンタイアリとそっくりの姿をした寄生甲虫のこと(こうすることで、宿主に食べられるのを防いでいる)。
ほかにも、深海や地底に生息する微生物や、極限環境に生息する微生物、現在の生物の定義をはるかに超えた微小な生物(生物学の歴史では、生物の定義はつねに塗り替えられてきた)であるナノバクテリアあるいはナノンも登場する。
そこには人間の独善的な利益を超えた、純粋に摩訶不思議な生物の世界が生き生きと描かれている。
本書のもうひとつの魅力は、生物の新たな世界を発見した研究者たちの、じつに人間臭い素顔と「不屈の精神」だろう。
新たな生物界の発見という輝かしい科学的功績は、神(そして神の代理者たる人間)を中心とした世界観・生物観を持つ欧米において、長いあいだ、神を冒涜する行為以外の何物でもなかった。
人間こそが「神の代行者にして万物の中心」とする考えは、欧米社会に根強く残り(近年に発表された世論調査でも進化論を信じていると答えたのは米国人のわずか4割だった)、本書に登場する科学者たちはその偉大なる発見に対して、頑迷な抵抗や批判や嫌がらせを受けてきた。
彼らはいわば異端児であり、孤独な革命児だった。そして狂気にも似た情熱を研究に注ぎ、あくなき探求心と鋭い観察眼を対象に向ける生粋の研究者でもあった。
細胞内共生説を提唱したリン・マーギュリスは、非難の嵐にあっても「わたしは怖気づいたりはしない」と敢然と言い放った。
19世紀の博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスは、艱難辛苦の末に集めた膨大な数の生物標本を船の難破で失ったが、それでもなお標本を収集するために、海外へ再度旅立ち、そこで自然選択説を思いついた。
全生物種カタログ化計画の推進者ダン・ジャンセンは、たび重なるプロジェクトの挫折にもめげず、新たに携帯DNAバーコード計画を始動させた。
他にも、研究者として無名のまま長年こつこつと研究を続け、50歳手前で古細菌を発見したカール・ウーズや、アリの寄生ダニに自分の名前をつけて、見果てぬ夢を来世に託すカール・レッテンマイヤー、熱帯雨林の林冠にDDTを散布して大量の昆虫標本をつくり、その分類に自己完結的な悦びを見出すテリー・アーウィンなど、実直な生物学者からマッドサイエンティストめいた昆虫学者まで、多彩な顔ぶれが登場する。
彼らの人間味あふれる生き様から浮かび上がってくるのは、輝かしい成功者のイメージとはかけ離れた、不器用で世事に疎い職人気質の科学者像であり、その姿は、この大不況の日本であえぐわたしたち(特にわたくし、不況その他の諸事情にあえぎまる夢ねこ)に生きる力を与えてくれる。
成功してもしなくても、彼らはその道を選んだのだろう。彼らが彼らであるかぎり、そう生きるしかなかったのだ。彼らの功績は世に認められ、その名は歴史に残った。
だがその影で、無名のまま消えていった研究者は山ほどいる。
世に認められず消えていった彼ら名はもちろん歴史には残らなかったが、彼らとて、彼らが彼らであるかぎり、不器用なまでに研究に打ち込むしかなかったのだろう。それが無上の悦びであり、苦しみであったのだろう。
彼らの累々たる屍の上に生物学という学問が築かれていった。
歴史に名を残した者も残さなかった者も、どちらの人生も豊かであったと、わたしは思う。