2月の週末、2週続けて上野の東京国立博物館へ。
お目当ては『北京故宮博物院200選』展。
本展覧会の超目玉だった「清明上河図」(伝・張擇端作)は早々と帰国されていて、実物にはお目にかかれなかったが、複製と映像と拡大図を見るだけでも、胸がわくわくして、おそらく一日中見ていても飽きないほど素晴らしい作品だった。
773人の人々が毛髪よりも細い線で描かれている、じつに緻密な作品だ。
5メートルの巻物に、物売りや客引き、酔っ払い、ラクダの隊商、船上生活者、洗濯をする人、易者、質屋、講釈師、道士、高級官吏など、誰もが皆、何かに従事し、笑い、楽しみ、嘆き、悲しみながら生きている。
人々の活気によって、画面全体がアニメーションのように躍動し、息づいている。
群衆一人ひとりの動きは静止しているはずなのに、画面からは溢れんばかりの生命力が伝わってくる。
数百年経った今でも、画中の人々は生き続けている。
神品といわれる「清明上河図」だが、まさに神業だ。
実物を見るのに、3時間待ちの行列ができたというが、たしかにそれだけの価値がある。
ああ、見たかったなー。
「清明上河図」以外にも見ごたえのある作品が山ほどあったが、特に印象に残ったものだけをピックアップすると;
●『方盤』(戦国時代)
青銅器の方盤。虎の形をした足が4本ついているが、その虎はそれぞれ他の猛獣に咬みつ
かれ、その猛獣に蛇が巻きついている。内側には、絡み合う110匹の小さな龍や、カエル、魚、
亀などの文様が彫られ、側面には、羊に授乳する怪人や、翼と嘴のついた人面などがあしら
われている。
これらの彫刻の背後には、いったいどのような世界観があるのだろうか。
おそらく祭祀用のもので、魔除けのような意味合いがあるのだろうが、「羊が授乳する」のでは
なく、「羊に授乳する怪人」というコンセプトが斬新で面白い!
この精緻な作品が紀元前5,6世紀の作品なのだから、中国文明、おそるべし。
●『草書諸上座帖巻』 黄庭堅筆 (北宋、1099-1100年頃)
今回、宗四大家の書が多数展示されていたが、とりわけ気に入ったのが、この黄庭堅の作品。
ミロの抽象画を思わせる、自由闊達にして天衣無縫な「狂草」から、最後には端正な行楷書へ
と転じる、じつに音楽的な作品だ。
書とは絵画であり、シンフォニーでもあるのだと初めて悟った。
もはや人間業ではない。
黄庭堅にも神が宿ったにちがいない。
●『琺瑯蓮唐草文龍耳瓶』 (元・明、14-15世紀)
「琺瑯」とは、七宝焼き(クロワゾネ)のこと。
目が覚めるような鮮やかで透明感のあるトルコブルーの地に、華麗な花の文様が施され、
龍の形をした黄金の耳がついた壺。
口縁や台座にも金があしらわれた宝石のような輝きを放つ作品だ。
この優美な「青」にもう一度会いたくて、展覧会の最終日にも訪れたのだが、あまりにも混んで
いたので断念して、その日は常設展だけを見ることにした。
(常設展については別項で紹介する。)
以上、いずれ劣らぬ名品ぞろいだったのだが、その美しさに触れるにつれ、
かつてこの世に存在した、これら名品以上の傑作のことを思わずにはいられない。
子どものころに、台北の故宮博物館に2度ほど訪れたことがある。
子ども心にも、その絢爛たる輝き、目眩がするほどの細密さ、息をのむほどのスケール感に圧倒された。
とても人間がつくったものとは思えなかった。
そこには、心臓をつかんで激しく揺さぶるような、有無を言わせないパワーがあった。
ただもう、見るだけで、「中国文明」という途方もなく偉大な文明の威力が伝わってきた。
蒋介石は文明の財宝をことごとく持ち去った。
残った宝の数々も、反右派闘争や文革によって、無残に破壊された(木彫の仏像などは壊滅に
ひとしい)。
形あるものはいつかは滅びる。
それは世のならいだけれども、
宗教によって、イデオロギーによって、暴力や戦争によって、科学技術への盲信によって、
破壊された文明の残滓をみるのはしのびない。
人間の愚行による破壊をみるのは、自然による破壊を目にするよりも、やりきれない思いがする。
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