(東京国立近代美術館のつづき)
この日は2時前に着いたのだが、タイミング良く、所蔵作品展のガイドツアーが始まったので参加させてもらった。テーマは「大画面作品の見方」。最初の作品は、川端龍子の『草炎』だった。
濃紺地の大画面に金泥で描かれた草花は、まるで蒔絵のようにも見える。
同じ金泥でも、銀を混ぜて白っぽい色合いを出したり、金の純度を下げて透明感を出したりと、微妙な変化を加えることで、装飾性と写実性の見事なバランスが生み出されている。
当初、洋画家だった川端龍子は渡米した際、ボストン美術館で目にした日本美術に感銘を受けて、日本画家に転向する。この精緻な写実性は、彼の洋画家時代の技術が生かされているのだろう。江戸琳派風のこの絵は、金を用いても決して華美にはならず、しっとりと落ち着いた風情を醸していた。
次にガイドさん(大内久美子さん)に案内されたのは、福沢一郎の『牛』だった。
大画面なので、まずは参加者一同、遠くからこの絵を眺め、ガイドさんから「どんな印象を受けますか?」などの質問を受ける。
どこか歪(いびつ)な印象の絵だ。牛は短足で不格好で、ところどころ穴があいているし、肉にしまりがなく、どこか不気味である。背後では、人が、意味もなく折り重なっているのだろうか。どんよりとした雲。荒涼とした大地に太陽が容赦なく照りつけている。
1930年代半ば、当時絵が売れなかった福沢(彼は最初、朝倉文夫に師事した彫刻家だったが、のちに洋画家に転向した)は、心機一転満州に渡る。日本とはあまりにも違う満州の風土、人々、町並み。そこからインスピレーションを得て描いたのが、この絵だという(牛は、古代ギリシャの壺絵のモチーフを参考にしたそうだ)。
三番目にガイドさんに案内されたのが、大岩オスカールの『ガーデニング(平和への道)』。
遠くから見た『ガーデニング』。タイトルと絵がしっくりこない。
ここでも、先ほどと同じように、まずは離れて大画面の作品をみんなで眺めた。廃墟のような街並みが画面の左右に広がり、中央に河らしきものが描かれている。白く散らばっているのは、花だろうか。
近づいてみると、戦車らしきものが見える。911事件後のイラク戦争を描いた作品だそうだ。作者は40代の日系ブラジル人、気鋭の画家だ。サブタイトルの『平和への道』というのは、アメリカがこの戦争で使った大義名分。つまり、非常にアイロニカルな絵であり、白い花のように見えたものは、場所によっては白い硝煙となっている。
「平和のための戦い」という、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくるダブルスピーク(「戦争は平和である」という党のスローガン)という自家撞着を絵画化したような作品だ。だが、これは小説の中の出来事ではなく、現に今も起きていることであり、それを世界が許容し、日本が支援している。この絵を見ることで、そういう現実をあらためて考えさせられた。
最後に案内されたのが、野見山暁治の『ある証言』だった。
「なんじゃこりゃあ!」という感じ。いつものように「これ、何に見えますか?」というガイドさんの問いかけに、「クエのような巨大魚があおむけになって大口を開けているところ。背景は海かな」と、適当に答えたわたし。他には、「大きながまぐち」とか、「まな板の上に載せられた魚」などの意見があった。
実はこれ、大きな壷を上から見た絵だとのこと。 嵐の日にベランダでぐらぐら揺れていた大壺が、ある瞬間にパンッと粉々に割れた、その衝撃を絵にしたそうだ。よく分らないけれど、嵐っぽい雰囲気は漂っていた。92歳の野見山画伯は、今もこうした迫力のある絵を描いていらっしゃるそうである。 その生命力、あやかりたいものだ。
こんな感じで、美術館のガイドツアーに参加したのは初めてだったが、見ず知らずの人たちと一緒に、ああだこうだと感想を述べながら、ひとつの作品をじっくりと鑑賞するのは、とても楽しい経験だった。
ほかにも所蔵展には見ごたえのある作品がたくさんあった(ここは「カメラシール」を衣服に貼れば撮影可能。この美術館の、こういう太っ腹なところが好き)。
安田靫彦『挿花』
小林古径『茄子』
奥村土牛『胡瓜畑』
小倉遊亀『浴女 その二』
……と、涼しげな夏らしい展示が続きます。
安井曽太郎『奥入瀬の渓流』
安井曽太郎『金蓉』
香月泰男『釣り床』
大好きな加山又造さんの『天の川』
いつ見ても、美しい絵です。
イケムラレイコ『樹の愛』
樹から人が生えているのか、人から樹が生えているのか?
澁澤龍彦の「スキタイの羊」あるいは「マンドラゴラの根(人の形をいていて、引き抜くと悲鳴のような声をあげるという)」を思い出す。
澁澤いわく、「ワクワク島では、イチジクに似た植物の果実から、羊ではなくて、人間の若い娘が生じるのである。果実が熟すると、娘は完全な肉体を揃えて、髪の毛で枝からぶら下がり、やがて熟し切ると、『ワクワク』という悲しげな叫び声をあげながら、枝から落ちて死んでしまう。哀切な童話的な幻想にみちた伝説と言ってよいだろう」。
こういう得体のしれない植物は見ているだけでワクワクします。
収蔵展以外にも、「いみありげなしみ」というタイトルの「(意味のある?)しみ」をテーマにした作品展もあった(つまるところ絵画を構成するのも、色彩や形状をもつ画面上の「しみ」にほかならない)。
北脇昇『デカルコマニーA』