この絵は、ボッカチオ作『デカメロン』の「ナスタジョ・デリ・オネスティの物語」を翻案した詩「テオドーレとホノーリア」にもとづいて描かれたもの。 ホノーリアに冷たくされたテオドーレが、森のなかでグイド・カヴァルカンティの亡霊に出会う。恋人からひどい仕打ちを受けたために自害したカヴァルカンティは亡霊となって、獰猛な犬たちにかつての恋人を襲わせて復讐している、というのがこの場面。
写真では分かりにくいが、縦2.7メートル、横3メートル以上もある大画面になっていて、非常に迫力がある。復讐の鬼と化したグイド・カヴァルカンティの顔も怖いが、さらにインパクトがあるのが、大きな目をぎょろりとさせてテオドーレを睨みつける馬の表情だ。
逃げるシカのような姿をした女性(まさに「カモシカのような脚」)の柔肌に鋭い爪を立てる犬たちは、邪悪な悪魔のように見える。 シカを狩るように女を狩るという男の怨念と、映画のような躍動感が画面いっぱいにみなぎっている。 こういう不気味さ、暗さは『夢魔』の画家、ヒュースリーならでは。
松方コレクションの指南役フランク・ブラングィンの『しけの日』
ロセッティ『愛の杯』
愛の情熱をあらわすかのような真っ赤なローブ。 「永遠」と「忠誠」を意味する常緑の蔦のハート形と「The Loving Cup(愛の杯)」のハートの模様がマッチしている。額縁下部には、「甘き夜、楽しき日/美しき愛の騎士へ」という銘文が刻まれ、いかにもラファエル前派らしいロマンティックな甘い香りが絵全体から漂ってくる。
額縁下部に刻まれた銘文。
モロー『牢獄のサロメ』 1873年
じめじめとした暗く冷たい地下牢のなか。画面左奥では、ヨハネの首が今まさに斬りおとされようとしている。このむごたらしい斬首の場面とはまるで別世界にいるように、菩薩の思惟像のような瞑想的な風情をしたサロメが、床に置かれた盆を眺めている。そこにはやがてヨハネの首が載せられることになるだろう。
悲しみに沈んだ静かな表情を浮かべた聖女のサロメと、ヨハネの首を所望する悪女のサロメ。 矛盾した2つの顔を持つファムファタルを描いたこの絵は、世紀末的雰囲気を妖しく漂わせている。
モロー『ピエタ』 1876年頃
シャヴァンヌ『貧しき漁夫』
このあいだの『オルセー美術館展』で来日した同名の作品は、横長の大画面で、岸辺で花を摘む少女と眠る赤ん坊が描かれていたが、こちらは縦長で舟上の漁夫と赤ん坊が主役。ジグザグにつながる舳先と岸辺の線が面白い味わいを出している。シャヴァンヌ独特の色づかいと静謐な空気感がいつ見ても素敵な絵。
ナビ派のボナールの『坐る娘と兎』
縦長の画面や装飾性、渋い色調などジャポニズムの影響を受けて描かれた一枚。ウサギのモチーフも日本の影響なのだろうか。
同じくナビ派のポール・ランソンの『ジギタリス』 1899年
曲線を多用した草花の表現はアールヌーヴォー的で、ミュシャの絵にも通じるものがある。
ナビ派が続くが、ドニの『踊る女たち』
ドニお得意のミューズのプロフィール。楽器を持つ女性のモデルはマルトか?
ハンマースホイ『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』1910年
ハンマースホイの絵には個人的にせつない思い出があって、この絵の雰囲気は心に秘めたその思いにしっくりと馴染みます。彼の絵は、未来を夢見るためではなく、過去を偲ぶための絵、思いを弔うための絵なのです。
キース・ヴァン・ドンゲン『カジノのホール』 1920年
藤田嗣治『坐る女』 1929年
狩野派の障壁画のような金箔の背景と、白く繊細な女性の描線。フジタ・ワールド全開の一枚。
エルンスト『石化した森』 1927年
ドイツ・ロマン主義的な鬱蒼とした神秘の森が、グラッタージュ(幾層にも塗り重ねた絵の具をパレットナイフで削るもの)というシュールレアリスム的自動技法を使って表現されている。
森の魅力についてエルンストは「広大な空間のなかで呼吸する喜び、それとともにある、木々の檻のなかに閉じ込められているという苦悩の感覚、自由であり、囚われてもいる」と語っている。
ジャン・デュビュッフェ『ご婦人のからだ(ぼさぼさ髪)』
漆喰のような質感の絵画。デュビュッフェ自身はこれを「アッサンブラージュ(立体的なものの寄せ集め)」と呼んだ。