もつれつつ戀する蝶のくるほしく山峡ふかく落ちてゆくなり 偶庵
レトロな御嶽駅 電車は1時間に数本 |
御盆休みの週末、人ごみを避けて青梅の玉堂美術館へ。
駅を降りると(御嶽駅に降り立ったのは初めて!)、そこは東京とは思えない山紫水明の地でした。
川遊びに興じる人たち |
カヌー(カヤック?)も楽しそう~ |
ボートで渓流下り |
美術館対岸の料理旅館「河鹿園」 |
蝉時雨のなか橋を渡って少し行くと、川沿いに趣のある美術館が見えてきました。
戦時中に奥多摩に疎開していた川合玉堂は、都内の自宅が戦災により焼失したことから、御嶽に定住し、新居を「偶庵」と名づけたそうです。
「偶庵」とは、「偶々(たまたま)、多摩(たま)に住んだ」ことに由来するもので、一種のおやじギャグ(?)ですね。それが、歌人・俳人であった玉堂の雅号にもなっています。
この美術館は、玉堂没後4年の昭和36年に、彼の人柄を偲ぶ地元の有志と、全国の愛好家たちの寄付によって建てられました。
寄贈された土地に建つ美術館の建物は、数寄屋建築家の吉田五十六が無償で設計したとのこと。
玉堂の芸術と人柄を愛する人たちの思いと熱意がこめられた美術館なのです。
行幸啓記念碑 |
最初に入った展示室には、《夏雨五位鷺》や《夏川》、《江畔夏夕》など、収蔵品の中でも夏らしい作品が紹介されていました。
玉堂は水の表現が、特に渓流や滝や波などの動きのある水の表現が実に巧みな画家です。
「みずからまず水になって描けば水になり……」と画家自身が語っています。
今回、夢ねこが特に気に入ったのが、《瀑布》という作品。
これは縦2メートル以上もあろうかという大作で、その画をひときわ高く掛けてあるため、ほんものの滝を見上げるように滝の画を見上げつつ、流れ落ちる水しぶきとともに神々しい「気」のようなものを全身に浴びているような気分になります。
玉堂は、雪などを描くときに「何も塗らない」ことで雪の白さを表現しているのですが、この《瀑布》でも、水が滝壷に落ちるあたりの白さは、おそらく色を塗らずに紙の白さを生かしているように思われました。
夢ねこは学生時代、大学近くの箕面の滝をひとりでぼうっと見上げたものですが(アルファ波のおかげでしょうかヒーリング効果満点なのです)、玉堂の《瀑布》も、いつまでも心を空っぽにして見つめていたい滝でした。
《瀑布》のほかにも、玉堂が16歳の時に描いた写生帖が公開されていました。
駒鳥や銭葵、野イチゴなどが実に美しく緻密に描かれていて、写生というレベルではなく、これだけで動植物図譜としてひとつの独立した作品になりうる見事な画帖です。
若干16歳でこれを描いたとは、まさに天才、恐るべし。
第1展示室を出ると、枯山水の庭園が見渡せます。
庭園の向こうからは清流のせせらぎが |
美術館の渡り廊下 |
第2展示室では、おもに偶庵たる玉堂の俳画や歌画を味わうことができます。
たとえば、《わが庵》。
青竹の絵の画賛に「わが庵は藪蚊を多み馬のごと足を蹴りつつ顔洗ふなり」という歌が詠まれていて、玉堂のお茶目な人柄が偲ばれます。
ほかには、《ひよどりの声》では、松葉の絵に「むかつをの雲をいまかくわが雲のあひかふあたりひよどりの声」の画賛、《打水》では、撫子と夏草の絵に「今朝もまた暑くなる陽のさしいりて 打水の球 葉ごとにひかる」など、自然とともにある日々の暮らしが衒いなく詠まれています。
自由闊達で飄々とした作風であるがゆえに、画と書と詩(短歌・俳句)が三位一体となった詩書画三絶の境地を垣間見た気がしました。
(真の三絶とは、かように技巧を感じさせない、さりげないものかもしれない。そう思うと、写真の中の玉堂の姿が仙人のように見えてきた。)
復元された玉堂の画室 |
玉堂は絵の具をすべて自分で溶いたそうです。 |
玉堂は生前、『多摩の草履』や『山笑集』、『若宮抄』といった句集・歌集を出していますが、それらは現在、美術年鑑社から刊行された『多摩の草履』にまとめられ、未定稿だった絶詠も収められています。
寝返りをしても障りの無き迄に歌の手帖に構図す我れは 偶庵
昭和32年6月上旬、享年84歳でした。