2011年5月25日水曜日

フェルメール《地理学者》のモデルは?

第Ⅲ部は、いかにもオランダ・フランドル絵画らしい〈風俗画と室内画〉。

17世紀オランダで人気を博した絵のジャンル「手紙画」として、ここではヘラルト・テル・ボルフの《ワイングラスを持つ婦人》が紹介されていた。


テル・ボルフはワインを飲む女性や、手紙を書く女性、手紙を書きながらワインを飲む女性の絵をたくさん描いている。
手紙を読む姿、したためる姿が描かれた絵は、見る者にさまざまな連想を起こさせ、想像力をかきたて、各人の胸に豊かな物語を想起させる。
フェルメールやレンブラント、デ・ホーホやフランス・ファン・ミーリスら、同時代の画家たちも好んで手紙画を描いているが、それぞれの絵に画家の個性があらわれているので、「オランダ手紙画」展などがあっても面白いかもしれない。

この絵の女性はワインを飲みながら(恋人からの?)手紙の内容を反芻しているのだろうか。それとも、これからしたためる手紙の構想を練っているのだろうか。
女性の瞑想的な表情が印象的だ。

今回の展示にはなかったがテル・ボルフの作品に、同じように女性が片手にワイングラス、もう一方の手にデキャンタを持っている作品がある。


女性は同じモデルだろう。
フードとスカートの色が異なるだけで、服装も部屋も同じ。
向かいに座る男性が眠りこけていて、女性は酒をあおっている。
やけ酒か?
倦怠期の男女といったところか。
二つの絵を並べてみると、女性の本質、男女の本質を映しているようで、それなりに味わい深い。



本展覧会の目玉である《地理学者》の前には人だかりができていた。


図版とは違い、実物は好い具合にくすんで落ち着いた色合いになっていた。
壁にはヨーアン・ブラフの海図、棚の上の地球儀は1618年にホンディウスがアムステルダムで制作したもの。東インド会社の貿易船が航行したインド洋がこちらに向けて描かれている。
地理学者が来ているヤポンス・ロック(着物風のガウン)や豪華な織物など、当時としては最先端の文物で埋め尽くされた室内。

ガウンの色はラピスラズリ、藍銅鉱、スマルトを用いた「フェルメールの青」。
青の画家といわれたフェルメールらしい色が、窓から差し込む陽光を浴びて、きらめくような絹の質感をみごとに再現し、机の上の製図紙の透けるような黄色と美しく調和している。

この地理学者は当初、下を向いて描かれていたのが後に窓の外を眺める構図に修正されたと、先日の「美の巨人たち」で放送されていた。

地理学者が下を向いて製図に没頭している姿を、光あふれる窓の外に目を向けるように描き直した。
これによりフェルメールは、地理学者の胸に宿ったであろう異国への憧憬や、彼の見果てぬ夢、何かを追い求める情熱を洗練された筆致でさりげなく描き出し、人々の心をとらえる普遍性のある絵に仕上げたのだ。

このようにフェルメールは絵の中の人物の視線を自在に操って、見る者に心理的な作用を及ぼすことに長けていた。
後ろを向いた《音楽のレッスン》は謎めいているし、振り返ってこちらを見つめる《青いターバンの少女》は何かを問いかけているようだ。

画中の人物の視線をどこに向けるかに画家がいかに腐心し、その効果をいかに巧みに計算したかが、《地理学者》の修正跡からうかがえる。

さて、この絵のモデルは同時代にデルフトに住んでいたアントニ・ファン・レーウェンフック(微生物の発見者)だといわれているが、どうなのだろうか。

かつてレーウェンフックが登場する書籍を訳した経緯から(興味がある方は拙訳書『アリの背中に乗った甲虫を探して』をご参照ください)、レーウェンフックについて調べたことがある。

レーウェンフックとフェルメールは同じ年(1932年)にデルフトに生まれている(2人の名前は教会の洗礼記録の同じページに載っている)。
また、1675年にフェルメールが没した際には、レーウェンフックがその遺産の管理人を務めたことも知られている(これは、フェルメールに多額の負債があったために、妻のカタリーナが自己破産を申請したため、管財人が必要だったことによる)。

ただ、レーウェンフックが管財人になったのはフェルメールの友人だったからではなく、当時役所に勤めていた関係から携わったのではないかと、わたしは考えている。
現にモンティアスという研究者の最近の調査によって、レーウェンフックが管財人を務めた事例が他にも3件見つかっていることから、レーウェンフックが職務としてフェルメールの遺産を管理したという推測が成り立つ。



レーウェンフックは測量士や織物商など、じつにさまざまな職についており、役所の出納係も彼が兼業していた仕事のひとつである。
またレーウェンフックは40歳を過ぎた頃(ちょうどフェルメールが亡くなった頃)から、顕微鏡のレンズを自作し、それで身近にあるありとあらゆるものを観察して、ついに微生物を発見した。
とてつもなく器用な人である。
レーウェンフックの肖像画としては、上に掲載した50代の頃のものが有名だ。
たしかに着衣(ヤポンス・ロック)や髪型(ただしこれはかつら)、地球儀など、《地理学者》との共通点も多いが、20年分の加齢を考慮しても、骨格や面立ちが違いすぎるのではないだろうか。

では、《地理学者》のモデルは誰か?
永遠に若くて、知的で、探究心旺盛なこの男は誰なのか?

わたしは2つ考えられると思う。

ひとつは、不特定の人物の頭部を描いた「トローニー」であるという仮説。
フェルメールは、《青いターバンの少女》にもトローニーを用い、実在の人物ではなく、架空(理想)の少女像を描いている。

またレンブラントの場合はその初期において、自分の顔を題材にしてさまざまな表情のパターン(トローニー)をサンプル化し、それらを後の画業に生かしている。

以上のことから、(牽強付会ではあるが)二つ目の仮説を導きだすことができる。
つまり、《地図学者》はフェルメールが自分の顔をもとに描いたトローニーとしての「自画像」だったのではないだろうか。

この絵の前に立った時、わたしはそう直感した。
絵の中の人物は思い描いていたフェルメール像にぴったり適合したからだ。
繊細で、儚げで、それでいてつねに何かを追い求めている、そんな人物像に。

夭逝したフェルメールにふさわしい自画像ではないだろうか。


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この展覧会にはほかにも、ヴァニタスとしての静物画や、海や森を描いた風景画など、心に響く絵が多数紹介されていた。

ピーテル・ド・リングの《果物やベルクマイヤー・グラスのある静物》の透明感のあるみずみずしい果実はまるで宝石のように輝いていた。 それもそのはず、ブドウはキリストの象徴だし、サクランボは天国の果実を意味している。しかしこの地上では、それらはやがて腐敗し、朽ちていくものでもある。
世の無常をあらわすヴァニタスだが、そこには戒めや教訓よりも、当時のオランダの繁栄や富があらわれていた。
(日本でいうとバブル期の虚栄に満ちたグラマラスな輝きといったところか。本邦が最貧国へとまっさかまさに転落しつつある今、この絵に込められた「存在の虚しさ」をしみじみと噛みしめたことであるよ。)

今回初めて出会った画家で、とても気に入ったのが、「夜の画家」アールト・ファン・デル・ネール。
彼は月明かりの水辺や黄昏の帆船を好んで描いた画家である。
日本ではめったに紹介されないが、今回は《漁船のある夜の運河》と《月明かりに照らされた船のある川》の2点が展示されていた。
かぎりなく静謐で神秘的な、ヒーリング効果のある絵だった。