2010年6月13日日曜日

オルセー美術館展:モロー『オルフェウス』

                                
 わたしは手に触れるものも、目に見えるものも信じない。
 ただ目に見えないもの、感じるものだけを信じている。
                                              ――ギュスターヴ・モロー



 吟遊詩人オルフェウスは毒蛇にかまれて亡くなった最愛の妻エウリディケを探しに、黄泉の国まで降りていく。だが、けっきょく妻を連れ戻すことはできず、禁欲的なオルフェウス教の創始者でもある彼は、女性をことごとく避けるようになる。それがバッカスの巫女たちの反感を買い(彼女たちが信仰する快楽主義的なディオニソス教はオルフェウス教と対立していたこともあり)、オルフェウスは無残にも八つ裂きにされて竪琴とともに川に投げ込まれる。


 オルフェウスの首は、川のせせらぎが奏でる竪琴の調べに合わせて、詩を口ずさみながら流れていった。


 ギリシャ神話に登場するオルフェウスの物語をもとに、モローは、「トラキアの岸辺に流れ着いたオルフェウスの首をひとりの若い娘が拾い上げ、敬虔な面持ちで竪琴に載せて運んでいく」という後日談を創作し、その場面を絵に描いた。



 当時モローは40歳。サロンに出品されたこの『オルフェウス』は、すぐに国家買い上げとなり、第2回パリ万博にも出展された。
 その数年前に描かれた『オイディプスとスフィンクス』とは画風がよく似ており、イタリア絵画を思わせる遠景の岩山や川の表現など、モローがイタリア留学中に吸収してきたさまざまな影響が見てとれる。



 首を拾い上げた娘(おそらくニンフだろう)が身につけた衣装や装身具は、後に描かれるサロメやガラテアに見られる「闇の中にぶちまけた宝石箱のように燦然と輝いた、宝石とモザイクと螺鈿の冷たい人工的なきらめき」(澁澤龍彦)ほど華美ではないが、それでも梅鉢紋のようなドレスの紋様や、菩薩像の瓔珞を彷彿させる精緻な腕輪や胸飾りは、娘の慈悲深く哀悼するような表情と相まって、東洋的でエキゾチックな雰囲気を醸している。


 モローが描く女性像は、男か女かわからないような、胸もくびれもあまりない両性具有的な骨太の姿で描かれることが少なくない。
 だが、この『オルフェウス』の中のニンフは、モローにしては珍しく、体つきのほっそりとした優美で可憐な姿で描かれている。


 いっぽう、瞑目したオルフェウスの古典的で端正な横顔は、ルーブル美術館に収蔵されているミケランジェロの『瀕死の奴隷』像をモデルにしたものとされている。

(オルセー美術館名誉学芸員のジュヌヴィエーヴ・ラカンブル氏によると、『瀕死の奴隷』の頭部の石膏模型がモローの自宅にあったそうである。)


 オルフェウスを主題にした絵画はそれまでも存在したが、オルフェウスの「首」をクローズアップし、ヨハネの首を抱くヘロデヤのようなポーズで描いたのは、モローが初めてだった。



 その後、彼は憑かれたようにサロメとヨハネの首(斬首直前のヨハネの姿から斬首された直後、斬首後のヨハネの首とサロメなど)を描き、『さかしま』の中でデゼッサントを耽美と頽廃の世界へ導き、ワイルドとビアズリーに霊感を吹き込み、数々の文人・詩人にインスピレーションを与えていった。



 この『オルフェウス』は、モロー自身にとっても着想の源となった。
 オルフェウスの首からサロメ&ヨハネの首へと発展させていっただけでなく、彼は後年、『ケンタウルスに運ばれる死せる詩人』や『旅する詩人』、『詩人の嘆き』、『サッフォー』など、詩人を主題とした作品を好んで描いているし、『エウリディケの墓の上のオルフェウス』や『人類の生』などの作品の中でオルフェウスを繰り返し登場させている。

 モローにとってオルフェウスは、「夢」と「歌」と「涙」の象徴だった。


 彼の最晩年の作品のひとつに『死せる竪琴』という水彩画の習作が遺されている。
 モローにとって竪琴は、詩人によって生み出された神秘なるもの「古代の神話」のシンボルであり、彼はその竪琴の死にゆく姿を描くことで「古代の神話がキリスト教の出現によって水没していく」さまを描きだそうとしていたらしい(この水彩画を描いた翌年にモローは胃がんで亡くなっている)。


 オルフェウスとその竪琴、そしてそれらが象徴するものは、その生涯にわたってモローの創作のテーマだったようだ。



 今回展示されている『オルフェウス』の絵をさらに見ていこう。

 オルフェウスの首を載せた竪琴を抱くニンフの背後には、低い常緑樹が描かれ、黄色い小ぶりの果実がたわわにみのっている。
 これは檸檬の木だろうか。一見美味しそうに見えるが、実は皮は苦く、実は酸っぱい檸檬の実は、ヴァニタスの一種かもしれない。モローは「過酷な人生の現実と、甘美な詩の夢」という言葉を残しており、この黄色い実の描写からも彼の思想の一端がうかがえる。


 画面右前方に描かれた2匹の亀は、おそらくヘルメスの竪琴に由来すると推察される。

 ギリシャ神話では、ヘルメスが亀の甲羅に葦を差して、この世で最初の竪琴をつくったと伝えられている。
 ヘルメスが奏でる竪琴の音色を聞いたアポロンは、それをいたく気に入り、ヘルメスから竪琴を譲ってもらった。この竪琴をアポロンから授かったのが、音楽の天才オルフェウスだった。オルフェウスの死後、竪琴は、彼の亡骸とともに川に流され、それをアポロンが拾って天に投げ、琴座にしたという。


 モローが描いた『オルフェウス』の中の2匹の亀は、たがいの尾に食いつかんばかりに、首をそれぞれ逆の方向に向けており、その頭と尾をなぞっていくと円環が現れる。竪琴を暗示する亀たちをウロボロスの環に見立てることで、モローは「死と再生」をもほのめかしたのかもしれない。



参考文献
『ギュスターヴ・モロー』(ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル著、隠岐由紀子監修、創元社)
『ギュスターヴ・モロー』(藤田尊潮訳編、八坂書房)

                                        美術館のカフェ

            ミュージアムショップで見つけたアフリカの民芸品。
            どこかほのぼのとしている。

                                   美術館周辺の紫陽花の生け垣。