曇り空の日曜日、図書館の帰りに近くの公園に寄ってみました。
ここは花菖蒲園としても知られる公園。
見頃はもう過ぎてしまったみたい。
紫陽花はこれから。曇天くらいがちょうどきれいでした。
アヤメとカキツバタと花菖蒲は紛らわしく、素人目には見分けるのは難しい。でも紛らわしいのはそれだけではなかったようです。
邪気をはらうために端午の節句に入る菖蒲湯とは、この花菖蒲を湯に入れるものだと、ずっと思っていました。ところが先日、『ほろにが菜時記』(塚本邦雄著、ウェッジ)を読んでいて、それが大きな間違いだったことに気づいたのです。
五月五日に「本日ショーブ湯」と書かれた銭湯のビラに花菖蒲の絵が添えられているのを見かけた著者は、次のように述べています。
もっとも、菖蒲と花菖蒲を混同しているのはこの風呂屋だけではない。戦前の有名な歌人さえ、新古今集の藤原良経作、端午の歌、「うちしめりあやめぞ香る時鳥(ほととぎす)鳴くやさつきの雨の夕暮」を観賞して、「あやめの花のゆかしい香りが云々」と書いているし、今日、「識者」の部類に属すると思われる誰彼の中に、区別をわきまえない人が相当数ある。
菖蒲には花と呼べるような花は咲かない。里芋科の植物だから、里芋の花に似た、白鼠の尻尾のような穂が出るだけである。
菖蒲は花菖蒲にあらず、だったのですね。
この花らしい花をつけない菖蒲は、風呂に入れる以外にも、刻んだ根を酒に浸して「菖蒲酒」にすることもできるし、「菖蒲酢」にして三杯酢に適宜混ぜると独特の風味が楽しめるのだそうです。いったい、どんな味がするのか、挑戦してみたい気もします。
食材とそれをはぐくんだ季節を五感で味わった歌人の繊細な感性が伝わってくるようです。
本書では他にも、百合根やななくさ、鮒鮨、そしてエスプレッソなど、「ほろにがい」味のする食べ物が、みずみずしく洗練された表現で描写されています。
ビールやコーヒーだけでなく、百合根や山菜、川魚の「ほろにがさ」を美味しいと感じるのは、水がきれいな土地に住む日本人ならではの感覚ではないでしょうか。ソースやスパイスの助けを借りずに、素材そのものの良さが引き出され、それを、五感を研ぎ澄まして味わう時に感じるのが「ほろにがさ」だと思うのです。
この本は装幀もとても美しく、岩崎灌園や毛利梅園といった江戸時代のナチュラリストの植物図譜を採用したカバー画や扉画が、塚本邦雄の端麗な文章と見事に調和していて、「紙の本」を繙くときの、あの得も言われぬ悦びを存分に堪能できる丁寧な造りになっています。
それにこの帯文、「アボガードはアボガドではない!」って、面白いですよね。
今では一般的に「アボガド」と称される「avocado(鰐梨)」ですが、著者いわく「アボカード」と発音すべきだそうです(Wikiにもそう書かれていました)。
そういえば、伊丹十三さんも、エッセイ『女たちよ!』の中で同じようなことをおっしゃっていました。彼は「食前の果物」の項でこのように書いています。
カジノ・ロワイヤルという小説のなかで、ジェイムズ・ボンド・ダブル・オウ・セブンが美女と食事をする。その時オードヴルに彼は「鰐梨」を食べる、とある。
わになしとはなんであるか。英語でこれをアヴォカードという。フランス料理の典型的なオードブルであります。
この『女たちよ!』が書かれたのが1960年代の終わりころ。まだアボガドはそれほど普及していなかった時代 で、一部の食通には「鰐梨」あるいは「アヴォカード」と呼ばれていたのでしょうか。
それはともかく、この『女たちよ!』でいちばん面白いのがプレイボーイ伊丹氏の女性論。巻末には彼の理想の女性像がリストアップされています。その一部をあげると、
「贅沢に育てられ品があり」、「しかも貧乏を恐れず」、「化粧せずとも愛らしく」、「自分の美しさに気づいてなく」、「話下手にして聞き上手」、「ものを欲しがらずに、そしてもらえばすこぶる喜んで」、「甘えん坊で、しつこくなく」、「なよなよとして、しかも毅然としたところがあり」、「頭がよくて、しかも馬鹿なところがあり」、「献身的で、恩着せがましくなく」、「年をとっても美しく」という具合。
伊丹氏が理想の結婚相手に求めるハードルは富士山よりも高く、そんな女性いるわけないと思っていました。でも続編の『再び女たちよ!』によると、これらの条件をすべてクリアした女性を氏は数人見つけたそうです(彼のほうが彼女たちのお眼鏡にかなわなかったという、伊丹さんらしいスマートなオチでした)。
こんな女性が本当にいたら素敵だと思います。でも現実は惚れたら最後、条件なんか吹っ飛ぶのかもしれません。恋は盲目、あばたもえくぼ、鰐梨も洋梨に見えてしまう。それがたぶん、幸せな錯覚にもとづく幸せな結婚なのでしょう。 あくまで私見ですが。