2011年5月25日水曜日

フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展

先週の水曜日、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催されていたフェルメール展に出かけた。


会期終了間近だけあって、平日にもかかわらず館内は混み合っていた。


第Ⅰ部は〈歴史画と寓意画〉。 

 ルーラント・サーフェレイの《音楽で動物を魅了するオルフェウス》やヤン・ブリューゲル(子)の《楽園でのエヴァの創造》では、当時高まりつつあった博物学的関心を反映して、旧約聖書やギリシア神話の主題の中に象や駱駝、孔雀や駝鳥など、エキゾチックな動物たちが登場する。
 動物園(メナジェリー)の起源は、ウィーンのシェーンブルン動物園(宮殿横)とする説や、フランス革命後のパリ動物園とする説などがあるが、それより以前の17世紀の北方では、もっと小規模な動物園が存在していたのだろうか。
 それともブリューゲル(子)などは、書物や他の絵画からの知識だけで、これらの絵を描いたのだろうか。古代中国やエジプト、メソポタミアにも動物園が存在していたらしいから、その辺の歴史を調べてみたくなった。


寓意画には、四匹のネズミが輪になって踊っている《ネズミのダンス》など、フランドル絵画らしくその土地の諺にもとづくものもあった(「ネコが外にいると、ネズミが机の上でダンスを踊る」という諺に由来する)。


面白かったのが、ダーフィット・デニールス(子)の《錬金術師の工房のクピトたち》。
愛の神クピト(エロス)たちが小難しい顔をして、金属を火で炙って精錬したり調合したりして錬金術にいそしんでいる絵だ。
周知のように錬金術(alchemy)は化学(chemistry)の語源。英語では互いに惹かれあうときに、「There's chemistry between you and me」などと言ったりするから、愛の摩訶不思議な力をクピトが研究・創造している図なのだろうか?
オットー・ウェニウスの『愛のエンブレム集』から題材をとった絵だそうだ。(注1)



レンブラントの《サウル王の前で竪琴を引くダヴィデ》はもう一度じっくりと見てみたい作品のひとつ。
音楽の名手で、「詩篇」の作者であると信じられてきたダヴィデ。絵画では、キリストの「原型」として扱われることも多く、その一方で、静かに竪琴を奏でる姿はオルフェウスの属性とも重なる部分もある。
憂鬱症に苦しむサウル王を音楽で癒す場面(元祖音楽療法!)がよく描かれるが、本作では、サウル王の心に一瞬沸き起こった嫉妬や自らの老いに対する苛立ちが見事に描かれている(ロバート・デ・ニーロなんかが巧みに演じそうな表情)。


      2番目の妻ヘンドリッキェをモデルにしたとされる《バテシバ》


このダヴィデがサウルの死後に王となった時に、人妻バテシバに横恋慕をして、彼女に求愛の手紙を送り、その手紙を読んで途方に暮れるバテシバの姿をレンブラントは後に描いている。
《バテシバ》(ルーブル美術館蔵)はレンブラントの作品の中で最も好きな絵のひとつだが、聖書の登場人物の人間臭い普遍的な心の葛藤と、理想化されていない生身の肉体をドラマティックに描くところが、レンブラントらしい。



第Ⅱ部は〈肖像画〉だった。

ここでは、レンブラントの工房にいたニコラース・マースの《黒い服の女性の肖像》など、黒い衣裳に身を包んだ貴族や裕福な市民の肖像画が多かった。

彼らは多くの場合、「ラフ」と呼ばれるドーナツ状の白い襞襟を首まわりにつけている。ルネサンス期にイタリアで流行したラフは、17世紀オランダで引き続きもてはやされ、このラフの状態でその人の経済状況が分かるとさえ言われた(白いラフは汚れやすく、糊づけにも非常に手間がかかった。このラフの手入れを担当する専任の召使までいたそうである)。

今回展示されている肖像画のラフはどれも純白で手入れが行き届いており、贅沢な黒の布地とともに、描かれた人々がかなりの富裕層に属していたことがうかがわれる。
また、黒衣の肖像画が多いのは、宗教改革以降、プロテスタントの人々にとって黒が「最も威厳があり高潔でキリスト教的な色とみなされた」(ミシェル・パストゥロー『BLEU 青の歴史』筑摩書房より)からであろう。
ラシャや絹織物の豪奢な質感が黒で描かれることによって際立っていた。



(注1)
ダーフィット・デニールス(子)の《錬金術師の工房のクピトたち》の元ネタが気になったので、後日、『愛のエンブレム集』(オットー・ウェニウス+ダニエル・ヘインシウス著、伊藤博明訳、ありな書房)を取り寄せて調べてみた。

『愛のエンブレム集』は、1608年に3種類の多国語版として刊行された。
本の構成は、見開きの左ページにモットーとエピグラムを、右側ページには楕円形の枠内に画家のオットー・ウェニウスが描いたさまざまなクピドの図像を収めたものになっている。
ラテン語のモットー、およびエピグラムについては、ウェニウス自身が、古典作家(オウィディウス、セネカ、キケロ、タキトゥス、プラトン、アリストテレスなど)の作品からセレクトしたとされている。ただし、これらのエピグラムは、必ずしも図像と完全に対応していない。
オランダ語のエピグラムはウェニウス自身が作者だと推測される。

今回展示されていたダーフィット・デニールス(子)の《錬金術師の工房のクピトたち》の典拠となったのは、『愛のエンブレム集』に掲載された「確かな愛は不確かな事柄において見分けられる」というモットー。             
同ページの図像には、《錬金術師の工房のクピトたち》と同じように、右側にはクピドが坩堝で金属を溶かしている図、左にはもう一人のクピドが貨幣を吟味している図が描かれている。
そのエピグラム(警句)として、以下のような記述がある。


「おまえは貨幣の偽造を、必要とするまえに試金石によって検査するだろうが、
まったく同様に、愛も正しく吟味されるべきだ。
というのは、黄褐色の貨幣は火の中で検査されるが、
同様に、信頼は厳しい時期に吟味されるべきだから。

火の中の黄金のように、
石の上で、火の中で黄金が試される。
そして、必要な折には、火の中の黄金のように、
愛する者の真実はあらゆる場所において示されねばならない。
そして、そこで、愛の証が見てとれる。」

なるほどー。
震災以降、離婚相談件数が増えたとか、婚約指輪の売り上げが伸びたなどの噂を聞くけれど、この警句にあるように「火の中で黄金が試される」ように「信頼は厳しい時期に吟味される」ということか。
震災が、愛の試金石になったわけだ。
そんなふうに背景を踏まえたうえで、もう一度この《錬金術師の工房のクピトたち》を観賞すると、さらに面白味が増すかもしれない。


ちなみに、フェルメールも『愛のエンブレム集』から影響を受けた作品を描いている。


フェルメール《ヴァージナルの前に立つ女性》
壁にかかった2枚の絵に注目してほしい。
左の山の風景を描いた小さな絵は、ヴァージナルの裏蓋に描かれた山岳風景とともに、女性が近い将来向かう場所を暗示している。

さらに、女性の心の内をあらわしているのが、右側のクピドの絵だとされている。このクピドの絵の典拠となったのが、『愛のエンブレム集』に描かれた、片手に弓を持ち、もう一方の手でカードを掲げているクピドの図像だ。

『愛のエンブレム集』では、クピドが掲げたカードに月桂冠と「Ⅰ」という文字が描かれており、クピドはさまざまな数字を記した書物を右足で踏んでいる。
この図像のモットーはアリストテレスの格言「完全な愛はただ一人に向けられる」に由来し、そのエピグラムには以下のように記されている。


「アモルは一人を愛し、一人を連れ出し、一人に戴冠し、
残る多くの物を足で踏みつける。
河は、多くの支流に分れれば分れるほど、
小さな川になり、やがて水を欠いて消滅する。

『私はあなただけが好きだ』と言える者を選びなさい。

唯一の者
クピドには唯一性が必要である。
アモルは分割しえないので、地面上の他の数を足で踏みつけ、
ただ「一」だけを喜ぶ。
流れが分かれると、たちまち河は干上がる。」


つまりフェルメールの絵は、ヴァージナルの前に立つ女性の一途な愛を、クピドの絵によって表現したことになる。

         

フェルメール《地理学者》のモデルは?

第Ⅲ部は、いかにもオランダ・フランドル絵画らしい〈風俗画と室内画〉。

17世紀オランダで人気を博した絵のジャンル「手紙画」として、ここではヘラルト・テル・ボルフの《ワイングラスを持つ婦人》が紹介されていた。


テル・ボルフはワインを飲む女性や、手紙を書く女性、手紙を書きながらワインを飲む女性の絵をたくさん描いている。
手紙を読む姿、したためる姿が描かれた絵は、見る者にさまざまな連想を起こさせ、想像力をかきたて、各人の胸に豊かな物語を想起させる。
フェルメールやレンブラント、デ・ホーホやフランス・ファン・ミーリスら、同時代の画家たちも好んで手紙画を描いているが、それぞれの絵に画家の個性があらわれているので、「オランダ手紙画」展などがあっても面白いかもしれない。

この絵の女性はワインを飲みながら(恋人からの?)手紙の内容を反芻しているのだろうか。それとも、これからしたためる手紙の構想を練っているのだろうか。
女性の瞑想的な表情が印象的だ。

今回の展示にはなかったがテル・ボルフの作品に、同じように女性が片手にワイングラス、もう一方の手にデキャンタを持っている作品がある。


女性は同じモデルだろう。
フードとスカートの色が異なるだけで、服装も部屋も同じ。
向かいに座る男性が眠りこけていて、女性は酒をあおっている。
やけ酒か?
倦怠期の男女といったところか。
二つの絵を並べてみると、女性の本質、男女の本質を映しているようで、それなりに味わい深い。



本展覧会の目玉である《地理学者》の前には人だかりができていた。


図版とは違い、実物は好い具合にくすんで落ち着いた色合いになっていた。
壁にはヨーアン・ブラフの海図、棚の上の地球儀は1618年にホンディウスがアムステルダムで制作したもの。東インド会社の貿易船が航行したインド洋がこちらに向けて描かれている。
地理学者が来ているヤポンス・ロック(着物風のガウン)や豪華な織物など、当時としては最先端の文物で埋め尽くされた室内。

ガウンの色はラピスラズリ、藍銅鉱、スマルトを用いた「フェルメールの青」。
青の画家といわれたフェルメールらしい色が、窓から差し込む陽光を浴びて、きらめくような絹の質感をみごとに再現し、机の上の製図紙の透けるような黄色と美しく調和している。

この地理学者は当初、下を向いて描かれていたのが後に窓の外を眺める構図に修正されたと、先日の「美の巨人たち」で放送されていた。

地理学者が下を向いて製図に没頭している姿を、光あふれる窓の外に目を向けるように描き直した。
これによりフェルメールは、地理学者の胸に宿ったであろう異国への憧憬や、彼の見果てぬ夢、何かを追い求める情熱を洗練された筆致でさりげなく描き出し、人々の心をとらえる普遍性のある絵に仕上げたのだ。

このようにフェルメールは絵の中の人物の視線を自在に操って、見る者に心理的な作用を及ぼすことに長けていた。
後ろを向いた《音楽のレッスン》は謎めいているし、振り返ってこちらを見つめる《青いターバンの少女》は何かを問いかけているようだ。

画中の人物の視線をどこに向けるかに画家がいかに腐心し、その効果をいかに巧みに計算したかが、《地理学者》の修正跡からうかがえる。

さて、この絵のモデルは同時代にデルフトに住んでいたアントニ・ファン・レーウェンフック(微生物の発見者)だといわれているが、どうなのだろうか。

かつてレーウェンフックが登場する書籍を訳した経緯から(興味がある方は拙訳書『アリの背中に乗った甲虫を探して』をご参照ください)、レーウェンフックについて調べたことがある。

レーウェンフックとフェルメールは同じ年(1932年)にデルフトに生まれている(2人の名前は教会の洗礼記録の同じページに載っている)。
また、1675年にフェルメールが没した際には、レーウェンフックがその遺産の管理人を務めたことも知られている(これは、フェルメールに多額の負債があったために、妻のカタリーナが自己破産を申請したため、管財人が必要だったことによる)。

ただ、レーウェンフックが管財人になったのはフェルメールの友人だったからではなく、当時役所に勤めていた関係から携わったのではないかと、わたしは考えている。
現にモンティアスという研究者の最近の調査によって、レーウェンフックが管財人を務めた事例が他にも3件見つかっていることから、レーウェンフックが職務としてフェルメールの遺産を管理したという推測が成り立つ。



レーウェンフックは測量士や織物商など、じつにさまざまな職についており、役所の出納係も彼が兼業していた仕事のひとつである。
またレーウェンフックは40歳を過ぎた頃(ちょうどフェルメールが亡くなった頃)から、顕微鏡のレンズを自作し、それで身近にあるありとあらゆるものを観察して、ついに微生物を発見した。
とてつもなく器用な人である。
レーウェンフックの肖像画としては、上に掲載した50代の頃のものが有名だ。
たしかに着衣(ヤポンス・ロック)や髪型(ただしこれはかつら)、地球儀など、《地理学者》との共通点も多いが、20年分の加齢を考慮しても、骨格や面立ちが違いすぎるのではないだろうか。

では、《地理学者》のモデルは誰か?
永遠に若くて、知的で、探究心旺盛なこの男は誰なのか?

わたしは2つ考えられると思う。

ひとつは、不特定の人物の頭部を描いた「トローニー」であるという仮説。
フェルメールは、《青いターバンの少女》にもトローニーを用い、実在の人物ではなく、架空(理想)の少女像を描いている。

またレンブラントの場合はその初期において、自分の顔を題材にしてさまざまな表情のパターン(トローニー)をサンプル化し、それらを後の画業に生かしている。

以上のことから、(牽強付会ではあるが)二つ目の仮説を導きだすことができる。
つまり、《地図学者》はフェルメールが自分の顔をもとに描いたトローニーとしての「自画像」だったのではないだろうか。

この絵の前に立った時、わたしはそう直感した。
絵の中の人物は思い描いていたフェルメール像にぴったり適合したからだ。
繊細で、儚げで、それでいてつねに何かを追い求めている、そんな人物像に。

夭逝したフェルメールにふさわしい自画像ではないだろうか。


    * * * * * * * * * * *

この展覧会にはほかにも、ヴァニタスとしての静物画や、海や森を描いた風景画など、心に響く絵が多数紹介されていた。

ピーテル・ド・リングの《果物やベルクマイヤー・グラスのある静物》の透明感のあるみずみずしい果実はまるで宝石のように輝いていた。 それもそのはず、ブドウはキリストの象徴だし、サクランボは天国の果実を意味している。しかしこの地上では、それらはやがて腐敗し、朽ちていくものでもある。
世の無常をあらわすヴァニタスだが、そこには戒めや教訓よりも、当時のオランダの繁栄や富があらわれていた。
(日本でいうとバブル期の虚栄に満ちたグラマラスな輝きといったところか。本邦が最貧国へとまっさかまさに転落しつつある今、この絵に込められた「存在の虚しさ」をしみじみと噛みしめたことであるよ。)

今回初めて出会った画家で、とても気に入ったのが、「夜の画家」アールト・ファン・デル・ネール。
彼は月明かりの水辺や黄昏の帆船を好んで描いた画家である。
日本ではめったに紹介されないが、今回は《漁船のある夜の運河》と《月明かりに照らされた船のある川》の2点が展示されていた。
かぎりなく静謐で神秘的な、ヒーリング効果のある絵だった。



                                 

2011年5月12日木曜日

長沢芦雪展 ~ MIHO MUSEUM

GWに訪れたMIHO MUSEUMの春季特別展は「長澤芦雪 奇は新なり」。


(「蘆雪」という字のほうが好きなので、以下、蘆雪とする。)


淀藩の下級武士の子として1754年に生まれた蘆雪は、長じて円山応挙に画を学んだ。
やがてめきめきと頭角をあらわし、源琦とならんで応挙門の「二哲」と呼ばれるようになる。

蘆雪の生涯については謎が多く、彼の弟子で養子だった蘆洲が著わした蘆雪の一代記が、明治維新の際に戦火で焼失したことから、さまざまな憶測を呼び、作家のイマジネーションを刺激した。

司馬遼太郎は早くから目をつけて、1960年代半ばに『蘆雪を殺す』という短編を発表している。


今回の展覧会(後期)では順路の最初のほうに、応挙と源琦の作品が展示されている。

唐美人を得意とした源琦は、師の画風を忠実に受け継いだ正統派。
展示されていた《楊貴妃図》も実に隙のない端正な筆致で、髪の毛なども細く、やわらかく、こまやかに描かれていた。

対する蘆雪の《唐美人図》は、緻密さにおいては源琦には及ばないものの、構図においては卓越している。
おそらくこの絵師の空間感覚、バランス感覚には、天性のものがあるのだろう。

師の整った画風や正統的な型を打ち破りたいという、蘆雪の熱い欲求が伝わってくるようだ。


ちなみに、司馬遼太郎は『蘆雪を殺す』の中で、応挙門下のこの2人の高弟に互いの画風を評させている。

蘆雪は源琦の作品に対して「(画の生命である)光焔がない」と酷評しているが、源琦は蘆雪の才能を認めていて、「鬼才やな」と虚心に褒め、「しかし悪口をいうのやあないが、蘆雪の絵というのはまだ完成しておらんな。ただ画布にあるのは暴漫な筆づかいだけや。あれが齢をとってまとまると稀代の画名をのこすかも知れん」と言っている(正しくは、司馬遼太郎がそのように言わしめている)。

もしかすると源琦の言葉は、司馬遼自身の蘆雪論なのかもしれない。

蘆雪は46歳で急逝したので(死因については毒殺や自殺など諸説ある)、老成した作品を残すことはなかったが、蘆雪作品の魅力は豪快粗放にして自由奔放なところにあるのであって、あまりまとまるとつまらなくなるのではないだろうか。

そんなに名を馳せなくてもいいじゃない。
もっとマイナー路線でいこうよ!

(ついでにいうと、司馬遼の作品の中では蘆雪は「虚喝漢」であり、彼の絵は「豪放でもなんでもなく、こけおどしだ」ということになっており、そうした性格が蘆雪の死因にも反映されている。)





さて、彼の豪放さ、自由闊達さがよくあらわれている作品のひとつが、島根県西光寺の《龍図襖絵》だろう(展示はGWまで)。


非常に荒々しく、一見稚拙とも思えるほどの輪郭線だが、この画面の使い方、バランスのとれた空間感覚は余人には到底真似のできないものだ。

それに何よりも、これほど生き生きとした表情の龍を見たことがあるだろうか。

伸びやかに真っ直ぐ上を向いて、どこまでもどこまでも昇っていこうとする意志が感じられる。
それでいて、ひょうきんでどこか愛嬌のある龍なのだ。

ゴツゴツとうねりながら高みを望む。
蘆雪自身の生きざまを映しているような気がした。




蘆雪の代表作で、和歌山無量寺の《虎図》襖絵。


一応、《龍図》と対になっており、今回、龍虎襖絵(つまり陰と陽)が対面する形で展示されていた(これも展示はGWまで)。
夢ねこはこの絵が大好きで、昨年の虎年の折には年賀状の図柄に使わせていただいた。

ところでMIHO MUSEUM館長の辻惟雄先生は、この絵の虎が2本の前足をそろえていると言っておられるが、それだと左側に重心が傾きすぎて、身体の平衡が保てないのではないだろうか。

左足を前に突き出し、右足を後ろに折って、そろそろと両前足を交互に前に出しながら、こちら(獲物)に近づいている場面のように、夢ねこには見えるが……。


それに、そもそも、これは本当にトラなのだろうか?

どこか可愛くて、劇画チックで、「頑張ってトラになりすましているネコ」といった
風情である。
そんなユーモラスなところが、この襖絵を愛すべき画にしている。


(ここで少し転調をして文体を敬体に。なんとなれば、グーグルがブログのメンテナンスをしていて、数時間ほど書き込めなくなり、その間に書き手の気分も変わったからです。エラーが続出して、すべてのデータが消えたのかと焦りました。)


さて、今回の展示作品の中でいちばん気に行ったのが、《一笑図》でした。

こちらで見ることができます。
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00013502.htm 

「一笑図」とは読んで字の如く、「竹」に「犬」と書いて「笑」の字に似ていることから、竹の下に犬が描かれ、一つの笑いが福を呼ぶという吉祥の意味が込められている画です(「笑う門には福来る」)。


蘆雪の《一笑図》は他にもいくつかのバージョンがあり、竹とともに犬と戯れる唐子が描かれた絵が有名ですが、夢ねこはこちらの画が断然好き!

特に白い子犬のころころした後ろ姿は、夢ねこのハートをわしづかみです。
顔が自然とほころんで思わず笑みがこぼれますね。
これこそ画題にたがわない、本物の「一笑図」といえましょう。


型破りな大画面の襖絵も好きだけれど、こうした小品にも生き物に対する蘆雪のまなざし、蘆雪作品独特の味わい深さがあらわれています。

彼の作品には画面の大小にかかわらず、人の心を動かす画の生命、「光焔」が宿っているようです。

























2011年5月11日水曜日

MIHO MUSEUM

夢ねこの実家(関西)に帰省したついでに、滋賀県の信楽にあるMIHO MUSEUMに行ってみた。




そこは、深山幽谷ともいえるような山の奥にあった。

        山の中にぽっかり開いたトンネル。
        レストランやミュージアムショップのあるレセプション館からは、
        環境に配慮した電気バスに乗って移動。




                             トンネルの中は、近未来的な空間。




               電気バスの車窓から撮影。



                 トンネルを抜けて。ちょっと傾いてしまいましたが、美術館正面。




               エントランスのロビー。
     設計は、ルーブル美術館のガラスのピラミッドで有名なI・M・ペイ。 





         「桃源郷」を設計のテーマにしたというだけあって、
         仙境の楽園のような風景が広がる。




               この本館は、「自然と建物と美術品」「伝統と現代」「東洋と西洋」の
      融合をテーマに、建築容積の80%以上が地中に埋設されている。





               北館の枯山水の中庭。 
 
  
春季特別展については別項に記すが、この美術館は常設展とその解説書もとても充実している。
(さすがは、辻惟雄先生が館長をしている美術館!) 
南館には、エジプト、西アジア、ギリシア・ローマ、南アジア、中国・ペルシアの美術品が部屋ごとに陳列されていた。
一点一点、丁寧に美しく照明する展示法も素晴らしく、作品をぞんぶんに堪能できる贅沢な美術館だった。


エジプト
《隼頭神像》
エジプト第19王朝初期(紀元前1295-1213年頃)の作品。均整のとれた見事な造形に、金、銀、ラピスラズリ、水晶などが美しくちりばめられていて、3000年以上も前のものとは到底思えないほどの輝きを放っていた。

《アルシノエⅡ世像》
プトレマイオス朝時代(紀元前270-246年頃)に、花崗岩性閃緑岩に彫られた彫像。プトレマイオスⅡ世の姉であり王妃であったアルシノエⅡ世は、ギリシアの女神アフロディテの化身とされ、エジプトの女神イシス神とも同一視された。エジプトとギリシアの文化が混淆したヘレニズム時代らしい彫像。


西アジア
紀元前2000-1000年にかけて、文化の坩堝となったイラン高原。さまざまな文化が興亡し、高度な金属工芸技術を持った文化が各地に栄えた。
常設展では、紀元前12-11世紀の《猛禽装飾杯》や《王氏装飾杯》など、猛禽や牡牛の首の取っ手のついた装飾的な黄金の杯が展示されていた。


ギリシア・ローマ
《ケレース女神像》
豊穣を司るローマの女神。ギリシアのデメテルと同一視される。
《庭園図》や《エロス(キューピッド)》のフレスコ画などもあった。


南アジア
おもにガンダーラの仏像が展示されていた(他にはカンボジアの宝冠仏立像やインドネシアの仏頭など)。
おそらく高さ2.5メートル以上あるだろう《ガンダーラ仏立像》(2世紀後半、片岩)は圧巻!


中国・ペルシア
殷・周の時代の青銅器が多数展示されていた。
神霊や霊獣などのモティーフがちりばめられていて、非常に面白い。
たとえば、「饕餮文(とうてつもん)」。
「饕」は財貨を貪ること,「餮」は飲食を貪ることを意味し、宋代の書物『考古図』によると、「首ありて身なし、人を食らっていまだ咽せず、害その身に及ぶ」とある。
大きな目玉を持ち、麒麟か竜のような角を生やしている。おそらく獅子と猛禽が合体したグリフィンのように、竜や虎や猛禽などが合体した空想上の霊獣なのだろう。
鬼瓦やシーサーのように魔除けの意味が込められた呪術的なものだったにちがいない。こうしたモティーフを青銅器にちりばめることで、そこに供される飲食物を魔物から守るという意味合いがあったと思われる。
こうした風習は古今東西さまざまな文化に見られる。
ゴシック建築のガーゴイルもそのひとつだろう。
影響関係があるのか、それとも人類共通の集合的無意識的なものなのか。
研究・考察してみたくなる面白いテーマだ。


そんなわけで、非常に充実した展示の数々だったので、1日中居ても飽きない感じだ。
この日は、日頃祖母の介護に追われている母に気分転換してもらうためのイベントだったので、じっくり見ることはできなかったが、またぜひ訪れてみたい。


さて、信楽の山奥に、これほど巨大な美術館(建物そのものが芸術作品!)を建てたのは、滋賀県に本部のある新宗教教団「神慈秀明会」である。
この教団は、熱海にMOA美術館をつくった世界救世教から分派して生まれた神道系の教団だ。
いずれにしろ、美術(芸術)の振興には潤沢な資金を持つパトロンが必要である。
国家も企業も個人も資金不足にあえいでいる昨今(最貧国になる日も近い?)では、こうした新宗教による庇護が必要なのかもしれない。
わたし自身は無宗教だしビンボー人なので、大金を献金する信者の心理はいまひとつ分らないのだが、新宗教に金が集まる仕組みについては、島田裕巳著『新宗教ビジネス』(講談社)に詳しいので、興味がある方は参照されたい。



                        

小泉八雲旧居 ~ ハーンとキーン

さらに田部美術館の隣にある小泉八雲旧居へ。


 左目を失明していたラフカディオ・ハーンは正面からの撮影を避けていたので、
 これは珍しい写真。
 写真のように知的で思索的な人だったのでしょうか。


武家屋敷での暮らしに憧れていたハーンが、この家を借りたのが明治24年(1891年)。
5月から11月までの半年間、妻のセツとともに過ごしたそうです。


           門を抜けると、庭の左隅に句碑が。

       くわれもす八雲旧居の秋の蚊に      高浜虚子

  昭和7年に虚子がここを訪れた際に詠んだ句。
  刺されるととりわけ痒いと言われる「秋の蚊」の代表句ですが、
  秋の蝉ほどではないにしても、秋の蚊にも、どこか行く季節を惜しむような
  切ない語感があります。
  そうした哀惜の感情が、八雲を偲ぶ感情とどこか重なり合ったのでしょうか。


           レトロな歪みのある窓ガラス越しに見える庭

小泉八雲は随筆『知られぬ日本の面影』の第16章「日本の庭園」の中で、自邸の庭について次のように書いています。

「……そこには苔の厚く蒸した大きな岩があり、水を容れて置く妙な格好の石鉢があり、年月の為め緑になった石灯篭があり……」
 

         鯱鉾も当時のまま(元は松江城にあったそうです)。 

「……また、城の屋根の尖った角に見るやうな――その鼻を地に着け、その尾を空に立てた、理想化した海豚の、大きな石の魚の――シャチコホが1つある……」




「荒く削ったままの平たい幾列かの石を伝って、種々な方向に横切ることができる。全体の感銘は、ある眠くなるような物寂しい気持ちの好い処にある。ある静かな流れ川の岸の感銘である」



室内はごくごく狭い日本家屋の造り。
ハーンは身長160センチと小柄だったから、それほど不便はなかったのかもしれません。

きっと必要最小限のものしか持たないシンプルな生活を送っていたのでしょう。

憧れるなあ、そういう暮らし。
物質的豊かさとは違う、心豊かな暮らし。
エネルギー消費の少ない暮らし。




ハーンは、庭の小動物に愛情を注いだと言われてます。

とりわけカエル君がお気に入りで、ヘビに食べられることを憐れんで、食事に供された肉をヘビに与えてカエル君を救ったそうです。            

ハーンの旧居をめぐりながら、ドナルド・キーン氏にも思いを馳せました。       
ハーンと同じように日本をこよなく愛し、日本の文化を海外に紹介し、そして日本に帰化することにしたキーン氏。
彼は、雑司ヶ谷に眠るハーンの生まれ変わりのような気がしてきたのです。
        
 


八雲旧居の前の堀川では、遊覧船がのどかに浮かんでいます。

でも、ここは島根原発からわずか10キロの場所。

ハーンとキーン氏。
日本と日本の文化を深く愛した2人の気持ちに報いるためにも、この美しい国を何としても原発の汚染から守りたい、守らねばと、決意を新たにした旅でした。


                 
 

2011年5月10日火曜日

田部美術館

八雲庵に隣接する田部美術館へ。


ここは、地元の名士(衆議院銀、島根新聞社長、島根県知事を務めた)だった
田部長右衛門が設立した美術館。
おもに田部家伝来の茶道具コレクションが収蔵されているそうです。

不昧公愛蔵の品々や不昧公作の書、花入れ、茶杓も多いと聞いて、
期待を胸に、いざ中へ。


         長屋門をくぐると、入口まで続く渡り廊下の左手に
         美しい庭園が広がっています。
         左側に見えるのが、長屋門の住居部分。



                      旅館のロビーのような美術館のエントランス。


              小原流の絵画のような燕子花。 



            茶花をあしらった花入れの展示。

  蔓植物の優美な影を生かした照明にも注目!
 (最近、照明デザインの本を訳したので、アート作品の照明に目がいきます。)



                          ひだすき茶盌

この美術館では、毎年「田部美術館大賞」を開催して、中国・四国地方の新進陶芸家に発表の場を提供しているそうです。
第1展示室には、入賞した作家さんの作品が展示されていました。
やはり備前焼が多かったようです。



第2展示室では、季節の茶席を意識した茶道具が陳列されています。
この日のテーマは、「若葉さわやか」。

                  不昧公筆の一行物。
     「三級浪高魚化龍(三級浪高うして、魚、龍と化す)」。
     
三級とは、三段になった高い滝のことで、中国の登竜門にある滝を指します。
つまり、魚が滝を登ると龍になるという「登龍門」の伝説に由来する禅語ですね。


流れ落ちる滝を鯉が昇っていくような動きのある書の筆致が絵画的。
ほとばしる水が感じられて、まさに主題通り、爽やかな気分になります。



                     花入れは、第12回大賞を受賞した作家さんの作品。


                 唐物朱桃(明時代)の香合
             なんというか、おしりみたいで可愛い。
           


                              初代宮崎寒雉作(江戸時代)小雲龍釜
  


        第9回大賞を受賞した作家さんによる備前の水指
            

                             瀬戸禾目 銘「田邉」茶入(不昧公の御銘)



               不昧公好み利休形塗 (三十之内)                   



                             春斎作 木賊蒔絵面取中次(江戸時代)




              モダニズム建築を思わせる内装


  喫茶室では、お菓子と抹茶をいただきながら庭園を眺めることができます。      
 庭園右端は、創設者の田部長右衛門の銅像。    

          





 



 

八雲庵 ~ 出雲蕎麦

お昼は、武家屋敷の隣にある出雲蕎麦で有名な八雲庵で。

        お庭がきれいで、雰囲気は素敵なお店


                GWなのでとっても混んでいて、お庭を眺めながら待つこと20分。



        夢ねこはシンプルに割子蕎麦三段重ね。
        家人は四段重ね、義父母は三色蕎麦をオーダー。



 ふ~む?

 期待していたのだけれど……。

 舌触りはまあまあなのですが、蕎麦の味も香りもしない。風味ゼロ。
 汁の味しかしないのです。          
 『八雲庵』は失敗でした。
 観光スポットの中心に立地していて放ってても客が入ってくることから、
 完全に胡坐をかいている感じです。
 蕎麦職人の心意気も矜持もまったく感じられない店でした。

 そう言いながらも、完食したけどね(笑)。

 今度来たときは、観光スポットの外れにある職人気質の蕎麦屋を探します!
            

塩見縄手 ~ 武家屋敷

松江旅行の続きです。 
明々庵から坂を下って、武家屋敷が立ち並ぶ塩見縄手へ。


塩見縄手とは、武家屋敷の前に広がる通りのことを指します。
初代出雲藩主堀尾吉晴が1607~1611年の松江城築城の際に山々を掘削して、
内堀とそれに平行する道路、そして侍屋敷を造成してできた城下町の通りです。

縄のように一筋に伸びた道であることから、「縄手」と呼ばれているとのこと。


         武家屋敷の前には松江城の堀が流れています。 
 

                      そういうわけで、武家屋敷の中へ。

(夢ねことしたことが、「長屋門」を撮り忘れてしまいました。やっちゃった!)

長屋門とはその名の通り、門としての機能も備えつつ、中間(ちゅうげん)と呼ばれる武家奉公人の住居(長屋)にもなっている、武家屋敷独特の門なのです。

門の隣が事務所になっていて、その隣に奉公人の住居(長屋)が横に長く続いています。
道側には物見窓がついていて、防衛機能も果たしていたようです。
こういうマルチ機能を備えた造りって大好き!
日本人って、こういうの得意ですよね。


           門をくぐった前庭の左手の隅にこんなものが。
           何だと思います?



そう、刀を試し斬り(&研磨)するための「盛り砂」だそうです。
江戸時代の松江藩では、実戦で刀を使うことなんてめったになかっただろうし。



                 式台玄関 
   前方左には足を洗うたらい、奥の右手には立派な姫駕籠。
   松江藩の家老の娘が嫁いだ際に使われたものだそうです。
   やはり昔の女性は小柄だったんだなあ。

   奥の壁上方には、驚くほど長い槍や薙刀が掛けられています。
   昔のお侍さんは、あんなものを振り回していたんですね。
   あっぱれ、あっぱれ。


                    松江城とその城下を描いた屏風。奥には神棚が祀られています。



           武家屋敷らしい質実剛健な書院造の座敷
   解説によると、「中老・塩見小兵衛のもとに、緊急の用件で近習頭某が
   書類を持参し、指示を仰ぎに罷り出ている」場面とのこと。

   中老の背後は立派な床の間になっていて、掛け軸が掛けられています。
   陳列されている甲冑も見事。



                                   武家屋敷のお庭



                     雪隠


                  二畳中板の侘びた茶室

   やはり松江藩の家臣はみな茶を嗜んだのでしょう。 

   不昧公は茶道随筆『贅言(むだごと)』の中で、茶事の奢侈贅沢を戒め、
   茶道は修身治国の資たるべきと説いていました。   
   ここは、館の主が身を修める神聖な場だったのですね。


             新鮮で美味しい水が汲めそうな井戸

    井戸の近くには、湯殿や台所などの水廻りが配置されており、
    機能性に富む造りになっていました。