2012年6月3日日曜日

椎名誠講演会 ~世界で見てきた自然と人間~

比較的涼しい日曜日、近所で開催された椎名誠さんの講演会を聞きにいった。


椎名誠さん著作展示

今日は紫のサマーウールに青い博多帯、紺の帯締めと水色の帯上げで、夢ねこ的には紫陽花をイメージしたコーディネートのつもり。

雨上がりの道を歩くこと5分、会場に到着。


講演会のポスター

ほとんどアドリブ的なノリだったが、世界の辺境を旅したときのことや、お孫さんのこと、水資源のこと(これについては著書『水惑星の旅』にくわしい)、世界の核のこと、葬送法のことなど、話題は多岐にわたり、とても面白いお話だった。

椎名さんは人間的な魅力にあふれるスケールの大きな(それでいてとっても自然体の)人なので、そのありあまる生命エネルギーが会場の隅にいた夢ねこにもびんびん伝わってきた。

特に印象に残った話をメモ的に箇条書きすると、

(1)インディオやイヌイットの人たちと生活を共にしたときに食べたもの。
サルの肉、ヘビの肉、アザラシ、アザラシの腸のなかの消化物など。

(2)ワイルドなものを食べた時の寄生虫問題や、アナコンダ、電気ナマズ、
肉食ナマズなどの危険な動物の話。
とくに、この肉食ナマズはピラニアよりもはるかに獰猛で(椎名さん曰く「見るからに厭らしいヤツ」)、人間が川で用をたすときに、川にそそがれる小水を「鯉の滝のぼり」のように昇り伝って人間の尿道に侵入し、膀胱を食い漁って宿主を死に至らしめる、というのだから恐ろしい。

(3)中国の開放トイレの話
かの有名な、仕切りも扉もない、あけっぴろげな中国のトイレ事情の話。
かくいう夢ねこも大学時代、中国に語学留学をするつもりで、手続きまで済ませたのだが、この開放トイレが障害となって留学を断念した。どうしてもムリ~~~!


(4)中国で去年極秘に行われた核実験の話
シーナさんたちが新疆ウイグル自治区を探検・取材中に、中国当局からカメラやビデオの撮影を禁じられたという。その時は理由については知らされなかったが、後になってシーナさんは、自治区で(人の居住区で!)地表核実験が行われたから撮影禁止になったのだと(日本の原発事故との関連から)悟ったそうだ。

もう、ほんとうに、こういうことはやめようよ。
居住区で地表核実験!
イランを非難する権利など、欧米や中国などの大国にはまったくない。
日本でも、なし崩し的に原発が再稼働されてしまうだろうし。
どうすればいい? 
いったい、どうすればいい?

(5)世界の葬送法と日本の戒名
世界の風葬や鳥葬に比べて、お墓が多くの国土を占める日本の現状の問題。
「このままでは役場と墓場だけになる」という過疎地のお取り寄りの声。
金もうけ主義の高額な戒名代と世界一高い日本のお葬式代&法要代。

たしかに、夢ねこも同感だ。
鳥や獣に死体を食べられるのは、ちょっとグロテスクなので、なるべくならそうならないほうがいいけれど、自分が死んだら、小さな骨壺に入れられ、狭苦しい土の中に埋められ、おまけに重い墓石まで載せられると思うと……考えただけでも息苦しくて、窒息死しそう。
それよりも、軽やかな灰になって、自由に海か山に散骨されたい。
ヒエラルキーのある戒名なんていらない。
死んでからまで階層制にとらわれたくないもの。



椎名さん関係資料の展示


夢ねこは完璧なインドア派で「無菌状態で生きてきた」とよく言われるけれど、椎名さんの講演を聞いて、少しだけワイルドになった気がした(気分だけ)。
















NHK短歌佳作 ~短歌セラピー4~

                                  
 いつかまた戻ってみたい屋根裏の
          ドアから過去へ、あの異次元へ





子どものころから繰り返し見る夢がある。

自宅(何の変哲もない普通の住宅)の押し入れやクローゼットの中、天袋の上にぽっかり穴が開いていて、そこから階段や抜け道がのび、それまでその存在にまったく気づかなかった秘密部屋や薄暗い座敷に続いている。
未知だったはずなのに不思議なほど既知感のあるノスタルジックな室内空間がひろがっているのだ。
(子宮回帰願望のバリエーションだろうか。)


この「平々凡々な日常からの空間的逸脱」というコンセプトがとても気に入っていて、この種の夢を見た日は何となくウキウキした気分になる。


屋根裏を題材にした作品には、乱歩の『屋根裏の散歩者』やアラン・ガードナーの『ふくろう
模様の皿』などがあって、これらは夢ねこの子ども時代に多大な影響を与え、それが夢にも作用したのかもしれない。

屋根裏や座敷牢と人間心理の関係を分析した春日武彦の『屋根裏に誰かいるんですよ。』には、「幻の同居人」と呼ばれる虚構の存在と共同生活を送る心を病んだ人々の例が語られている。

夢ねこも、この先一人暮らしをすることがあったら、幻の同居人の存在を妄想して、ぶつぶついいながら一緒に暮らすのだろうか。
それも悪くないかもしれない。


この歌は、「NHK短歌」2012年2月号に佳作として掲載されました。
題は「裏」。
選んでくださったのは、坂井修一先生です。

ありがとうございました。













NHK短歌佳作 ~短歌セラピー3~



いまはもうなにも思わずただ生きて時間薬を飲んで待つだけ





時の流れは残酷だけど、最大の癒しでもある。




この歌は、佐伯裕子先生に佳作として選んでいただきました。
題は、「間」。
「NHK短歌」2012年1月号掲載。

ありがとうございました。

































NHK短歌佳作 ~短歌セラピー2~




脳といふ入れ子の迷宮さまよへりアリアドネの糸手繰りたれども





ほんとうは、もっと自由になれるはずなのに、自由になれない束縛感、息苦しさ。

縛っているのは、だれ? 
呪縛の根源は、なに?

それは自分。
自分の思い、感情、願望、思考……。
脳!
自己意識を意識する入れ子構造。

自分で自分の脳にとらわれ、身動きできなくなっている。
クレタ島のラビリンスからテセウスを救ったアリアドネの糸を手繰っても、
抜け出せない脳の迷宮。

「自分」から自由になれる日は、来るのだろうか。


この歌は、「NHK短歌」2011年11月号に佳作として掲載されました。
選者は坂井修一先生。
題は「迷う」。

ありがとうございました。





2012年6月2日土曜日

西荻茶散歩(チャサンポー)

6月最初の土曜日、西荻窪で開催されている「茶散歩(チャサンポー)」に行ってきた。     
http://chasampo.com/



チャサンポーとは、西荻界隈84の店舗がお茶のサービスやさまざまな特典を提供して、多くの人に西荻窪の魅力を知ってもらう、という趣旨のイベントだそうだ。

曇り空で、風が涼しく、着物でお散歩するにはちょうど好いお天気だった。
(今日は叔母から譲り受けた薄手の単衣紬を対丈で着て、献上柄の帯でまとめた。今年はなるべく服を買わずに、手持ちの着物を着倒すことに決めたのだ。)


盛林堂書房では、倉敷の蟲文庫や林哲夫さんhttp://sumus.exblog.jp/たちが1店舗1段で参加する「ミニミニ古本市」が開催されていた。

店主・田中美穂さんの著作『わたしの小さな古本屋』で蟲文庫の存在を知って以来、カリガリ博士の書斎のような不気味チックな店の佇まいに惹かれて、蟲文庫にはいつか行ってみたいと思っていたのでちょうどよかった。

盛林堂店頭の100円均一コーナーには豪華な画集や函入りの文芸書なども並んでいて、かなりの大盤振る舞い(?)。 チャサンポーにかける店主の意気込みとこだわりが伝わってくる! 
(藤島武ニの画集を買っておくべきだったと、激しく後悔。)


雑貨店や古書店、ギャラリーなどをぶらぶらとひやかしながら散策。
骨の本数の多い蛇目風の和傘を見つけて、着物に合いそうなので買い求めた。

……が、かなり重くて、大きい。
さした時に、人の迷惑にならなければいいが。


そうこうしているうちに、たどり着いたのが、一欅庵(いっきょあん)。

一欅庵の表構

一欅庵は昭和8年に建てられた登録有形文化財の建物で、この日は、和民具や和小物の展示、書道点などが開催され、茶室では有料で呈茶のサービスもおこなわれていた。



廊下から見た茶室


この茶室では、お茶のお稽古もおこなわれているらしい。
また、お茶が習いたくなった……。


緑生い茂るお庭のつくばい



昭和の時代から時が止まったようなセピア色の子供部屋




アールデコのステンドグラスの窓



この家を建てた辻太一の書斎







こういう古い素敵な建物が残っていてくれて、ほんとうに嬉しい!

経年による劣化もさることながら、去年の震災時には壁の亀裂や剥落があったそうだ。
(HPより、http://www.leia.biz/atelier/atelier_syuri.html
建物の修復・維持に努めておられるオーナーご家族には頭が下がる。



西荻には個性豊かな店主が経営するユニークなお店がたくさんあるので、興味がある方はぜひ足を運んでみてください。
(夢ねこもこの町が好きになりそうです。)


2012年5月18日金曜日

KATAGAMI Style 世界が恋した日本のデザイン


急に肌寒くなった先週の日曜日、三菱一号館美術館で開催されている『KATAGAMI Style』展に行ってみた。


綿や絹に模様を染めつけるために使われた日本の「型紙」。

19世紀から20世紀への世紀転換期に、日本の型紙デザインが欧米の美術・工芸改革運動に影響を与えた軌跡をたどる展覧会だったので、夢ねこもテーマに合わせて、型染め紬の着物と更紗の帯といういでたちで鑑賞した。
(江戸小紋など、型染めを意識した着物姿の来場者も比較的多かったようだ。)




本展は5つのパートで構成される。

●第1章 型紙の世界:日本における型紙の歴史とその展開

江戸から明治にかけて制作された型紙と型染めの着物などを展示。
国貞や英泉、豊国、国芳などの浮世絵に見られる着物の文様、型紙の見本帳、江戸時代のファッションブック『当世七宝常盤雛型』なども陳列されていた。

《千鳥に波》など、伝統的な文様だが、抽象的でありながら、波浪の動きが生き生きとダイナミックに表現されていて、当時の日本人のデザイン感覚の高さを再認識した。




●第2章 型紙とアーツ・アンド・クラフツ:英米圏における型紙受容の諸展開
 

19世紀後半、プロダクトデザイナーの先駆的存在だったクリストファー・ドレッサーが日本を視察して、型染め技法をイギリスに紹介。それをきっかけに、リバティー百貨店では型紙が販売され、アーツ・アンド・クラフツ運動にも大きな影響を及ぼした。

ここでは、ウィリアム・モリスやチャールズ・レニー・マッキントッシュらが手がけたテキスタイルや家具、壁紙に見られる、蟹や雪輪、杜若などの日本的な文様や渋い微妙な色づかいが紹介されていた。

このコーナーで興味深かったのが、ワイルド作・ビアズレー画の『サロメ』初版本。

浮遊するサロメがヨハネの生首を持ってキスしようとする有名なクライマックスの場面(Oh, how I loved thee, I love thee yet, Jokanaan)が展示されており、ビアズレーがこの画の背景を描くにあたって参照したと思われる「唐草菊の型紙」もすぐ隣に並べられていたので、影響関係がよくわかるようになっていた。

狂い咲く唐草菊の過剰な表現が、サロメの病的な邪恋から醸し出される妄執のようなものを見事にあらわしていて、そういえば、「サロメ」の雰囲気って、南北や黙阿弥が描いた幕末歌舞伎の猟奇性と通じるものがあることにあらためて気づかされた。




●第3章 型紙とアール・ヌーヴォー:仏語圏における型紙受容の諸展開

アール・ヌーヴォーやナビ派への型紙デザインの影響をさぐるコーナー。
ミュシャのポスターや、ルネ・ラリック、ドーム兄弟、エミール・ガレの工芸品や宝飾品、ドニの絵画(彼の作品《家族の肖像》には、ドニ自身がデザインした壁紙が描かれている)などを展示。

ここで目を引いたのが、ガーネットを使ったサクランボ模様の金の「ボンボン入れ」。
香水瓶か嗅ぎ煙草入れくらいの大きさだろうか、おそらくボンボンが2~3個入るくらいの本当に小さな、小さな容器だ。

プルーストなどのベル・エポックの小説には貴婦人やココットが、宝石をあしらった、媚薬でも入っているようなほど妖しげで美しいミニチュアの器に入った甘く繊細な砂糖菓子を、「おひとつ、いかが?」と紳士や伊達男に勧める場面がよく描かれているが、この愛らしい容器を見ているだけで、当時の社交界の優雅で蠱惑的なワンシーンが浮かんでくる。



●第4章 型紙とユーゲントシュティール:独語圏における型紙受容の展開
頽廃的なルートヴィヒ2世の時代も終わり、19世紀後半に統一されたドイツでは、自国産業の発展のために、工芸関係の博物館や学校が数多く設立された。日本の型紙の需要に大きく貢献したのが、この工芸博物館・学校だった。
このコーナーでは、ドイツ語圏各地の工芸改革運動やユーゲントシュティールに型紙デザインの与えた影響がマイセンなどの工芸品を通して紹介されていた。

型紙の影響を受けて開花したフランスのアール・ヌーヴォーが華やかで有機的だったのに対し、モノクロームを基調とするドイツのユーゲントシュティールは、シックで無機質な印象。

ウィーン分離派のオーストリア造形芸術家連盟展のポスターなどが面白かった。


●第5章 現代に受け継がれる型紙デザイン

カーペットやカーテン、ファブリック、陶磁器などに見られる現代の型紙デザインを紹介するコーナー。


以上、世紀末芸術が好きな人には、時代の雰囲気を満喫できる、充実した展覧会だった。

この美術館の歴史史料室では『ジョサイア・コンドル』が愛した日本展も開催されているので、時間がある方はのぞいてみてください。
(正直言うと、それほど大した展示はなかったのですが……。)



帰りは、丸善の松丸本舗に立ち寄って、本を物色。

丸善ギャラリーで「萩 納冨晋作陶展」と「神山玄・大田和亜咲宜・武田晶子3人展」がやっていたので、のぞいてみる。

納冨晋先生の作品は、「青萩」という三島に淡い青い釉薬をかける独特のやきものだ。
洗練された造形に、宇宙的な青いブルー。
会場にいらっしゃった作家の先生に声をかけられ、少しお話をうかがう。
茶碗や花入れ、菓子器など、茶道具関係のものはほとんど売約済みだった。
個性的だけど、品のあるやきものなので、人気があるのもうなずける。

「3人展」では、質感豊かであたたかみのある、武田晶子さんの日本画にひと目ぼれ。
(こんな作品です、http://www.suiha.co.jp/?cat=9&aid=113
一目で気に入っても、すぐに買えないのが、悲しいところですが。


改修工事も終盤に入った東京駅
秋には竣工予定































2012年5月16日水曜日

ムットーニからくり劇場@世田谷文学館

自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬことに決心した。
それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に急に命が惜しくなった。
心の底からよせばよかったと思った。
けれども、もう遅い。自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。(中略)
そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
夏目漱石『夢十夜:第七夜』


小雨が降るなか新緑がみずみずしい


五月の半ば、用事で近くまで来たので、ついでに世田谷文学館に立ち寄った。


杜若が咲く濠には、鯉がたくさん泳いでいた





企画展では『手塚治虫』展が開催されていたが、この日のお目当ては常設展の「ムットーニからくり劇場」。
ここでは、文学作品をテーマにしたムットーニ(武藤政彦氏)のからくりアートが1時間ごとに上演される。

上演される作品順に紹介すると:
(多くの作品では、ムットーニの朗読や音楽や効果音に合わせて、人形や舞台装置が動く仕掛けになっていた。)

●《漂流者》 2006年
この記事のエピグラフで引用した夏目漱石の『夢十夜』第七夜を作品化したもの。
大海原の波がうねるように回転する布で表現され、「波の底から焼け火箸のような太陽が出る」という箇所では波間から真っ赤な丸い太陽が顔を出して、沈んでいく。

原作に登場する、甲板で涙をぬぐう女性や、天文学の話をする異人、ピアノを弾く若い女性と歌を歌う背の高い男性などが、ハーフミラーの向こうに次々と映し出される。

物語の語り手は、最後に船から投身自殺を図る。船から身を投げた瞬間、猛烈な後悔に襲われるが、時すでに遅し。「どこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった」と思ったまま、なすすべもなく黒い波へと静かに落ちてゆく。

(ムットーニの作品には、「落ちてゆく男」がよく登場するように思う。)

わたしはこの作品を見ながら、(もともと多かったが)最近さらに多くなった鉄道(特に中央線)の人身事故について思いをはせた。


●《The Spirit of Song(詩の精霊)》 2006年
宮沢和史さんの『書きかけの歌』を題材にした作品。宮沢さんの歌が流れていた。

詩人にとって、詩とは何だろう。
もしかすると、彼は自らの囚われ人かもしれない。
だとしたら、その詩に出てくる「君」とはいったい何だろう。
詩人によって生み出されてしまった彼女。
彼女こそ、その詩の精霊であるかもしれない。
(作品解説より)

●《眠り》 2007年
村上春樹の短編『眠り』がテーマ。

昨日と一昨日が入れ替わっても、そこには何の不都合もない。何という人生だろう、時々そう思う。しかしそれで虚しさを感じるというのでもない。私はただ単に驚いてしまうだけだ。昨日と一昨日の区別もつかないという事実に。そういう人生の中に自分が組み込まれてしまっているという事実に。そういう時、私は洗面所の鏡の前に立って、自分の顔をじっと眺める。十五分くらい頭の中を空っぽにして、自分の顔を純粋な物体として観察する。そうすると私の顔は、だんだん私自身から分離していく。そしてたまたま一カ所に同時存在している別個のものになってしまう。」

 眠りと覚醒のはざまを生きる女性。
 彼女から分離した、「一カ所に同時存在する」彼女がハーフミラーに映し出される。
 鏡の向こう側のもう一人の彼女は、もう一つの人生を生きるのだろうか。

 この短編は比較的長いので、朗読も継接ぎになっていたが、ハルキワールドから抜け出した、ムットーニ独特の世界が創出されていた。


●《Alone Rendezvous》 2006年
レイ・ブラッドベリの『万華鏡』の一場面、宇宙船の爆発によって宇宙空間に投げ出され、流星群の中を落下していく宇宙飛行士を描いた作品。
マスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》より間奏曲にのって、宝石箱のように美しい光の世界が展開する。

ホリスは目をこらしたが何も見えない。見えるのは、大きなダイヤモンドやサファイヤ、エメラルドのような霧や宇宙のビロードのようなインクの流れだけだった。水晶の炎にまじって神の声が聞こえた。ストーンが流星群に呑まれ、これから何年ものあいだ火星のまわりをまわり、五年ごとに地球に近づくのだと思うと、ある種の感動をおぼえ、想像力をかきたてられた。ストーンはこれから何百万年もの間惑星のまわりをまわるのだ。ストーンとミュルミドネス星団は、子どもの時、その長い管を手にとり太陽にすかしてくるくるまわして遊んだ、万華鏡のように、永遠に終わることなく色を変え形を変え続けるのだ。」 (川本三郎訳)

やがて宇宙飛行士は地球の大気圏にぶつかり、流星のように燃えながら落ちてゆく。

「 『ああ』と彼はいった。『だれか俺を見てくれるだろうか』

 田舎道を歩いていた小さな少年が空を見上げて叫んだ。『お母さん、見て! 流れ星だ!』
 輝く白い星がイリノイ州のたそがれの空を落ちていった。
 『願い事をするのよ』と母親がいった。『願い事を』」


(ここにも、「落ちていく男」を描いたムットーニの美学が反映されている。)


●《猫町》 1994年
朔太郎の『猫町』をテーマにした、からくり劇場の中では最も古い作品。
(ちなみに、この館の常設展では、朔太郎・川上澄生装幀の『猫町』(レンガ造りの床屋の窓から愛嬌のあるネコがのぞいている画)も展示されていた。)

●《月世界探検記》 1995年
海野十三の『月世界探検記』を題材にしたもの。
この原作は読んだことがないので、どういう場面なのかよく分らなかったけれど(この作品には朗読もついてないのです)、遠い昔に思い描かれた「ノスタルジックな未来」が表現されていて、味わい深い作品だった。
こういうキッチュなレトロ感が、ムットーニの初期の作品の魅力。

●《山月記》 1995年
中島敦『山月記』より。
人食い虎に変貌した旧友との再会。
人がトラの着ぐるみをきたようなトラが、なんとも、かわいい。


  ***************************************************

常設展(コレクション展)では、朔太郎、森茉莉、大藪春彦、中村汀女、坂口安吾など、下北沢・三軒茶屋界隈になじみ深い作家たちの著書や原稿、愛蔵品などが展示されていた。

ほかの作家の原稿はレプリカが多かったけれど、森茉莉のエッセイは肉筆原稿だったので思わず見入ってしまった。助詞の修正が多いのが特徴的かな。最初は思いつくまま、ダーっと勢いで書いて、後でいろいろ(文法的に)修正したり、推敲したりするタイプなのかもしれない。

森茉莉愛蔵のクマみたいな、コロコロしたイヌのぬいぐるみや、鴎外(パッパ)から贈られたという愛用のモザイクの首飾りなども展示されていて、森茉莉ファンには嬉しいかぎり。

また、大藪春彦のコーナーには、松田優作主演の『野獣死すべし』(赤いドレスを着た小林麻美を抱いて、銃で狙いを定めている図)や『蘇える金狼』の映画ポスターもあった。

松田優作が夭折しなければ、もっとたくさん名作がうまれたにちがいないと言う人もいるけれど、夢ねこはそうは思わない。
『野獣死すべし』こそ彼の最高作品であり、彼はあれに魂のすべてを注ぎ込んだ。 
彼はあれをつくるために生まれてきたのだと、夢ねこは勝手に思っている。
もうあんな、凄い映画は、誰にもつくれないだろう。



喫茶室ではアトリウムを眺めながら読書が楽しめる
至福のひととき


















































2012年4月30日月曜日

東北の春

GWの前半(4月29日)、桜の見ごろを迎えた東北は、花見客でにぎわっていた。

多賀城政庁跡の桜

ほんとうに自然のパワーは凄い。
喜びも、悲しみも、いろんなものを与えてくれる。


東北鎮護・奥州一宮「塩竈神社」


満開の桜




宝物を運ぶ神主さん


桜に平安装束が映えます



神苑




大島桜や佐野桜、兼六園菊桜、染井吉野など、色とりどりの桜


撫でると無病息災の御利益があるとされる「なで牛」
インドのシヴァ神信仰に由来するのかもしれない
愛嬌のある顔は、みんなに撫でられて黒光りしています



見事な枝垂れ桜


国の天然記念物「塩竈桜」
手毬状につく八重桜です


芭蕉が塩竈神社を参拝した折に見て、感動したとされる「文治灯籠」
しかし実際には、本物の文治灯籠は戦時中に供出されてしまったので、
この錆びた灯籠は戦後につくられたレプリカとのこと




塩竈神社社殿
ブルーノ・タウトは好みではないかもしれないが、
芭蕉は『奥の細道』のなかで荘厳な社殿を褒め称えた



1809年に、伊達周宗が蝦夷地警護凱旋ののち
奉寶として寄進した灯籠
江戸後期の高度な鋳物技術がうかがえる



塩竈神社内の「志波彦神社」



志波彦神社の前からは塩竈港と島々が見降ろせます


昨日の荒涼とした被災地とは、対照的な風景だった。

津波に襲われた場所は荒漠とした原野のようだが、影響を受けなかった場所は、傾きかけた古い家屋や店舗がまばらにあるだけで、ごく普通の街並みのように見える。

ほんの数日滞在しただけでは、被災地の現状など分かるはずもないが、現実をぐっと静かに受け止め、立ちあがり、前に進む人々の姿を見ることができた。

「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」
アランのこの言葉を実践しているかのような素敵な笑顔を、宮城で何度も目にした。


家族や親族が一緒だった(親戚のお見舞いと母の古希のお祝いを兼ねていた)ので、直接被災した場所をあまり見ることができなかったが、着々と復興に向かいつつある東北のパワーを実感した旅だった。





























































被災地へ

GWの初日、東京在住のわたしの家族は、大阪在住の親族たち(総勢8人)とともに、宮城県南部に住む伯父(父の兄)宅を訪れた。
(大阪の親族とは、仙台で合流。)


何もかも、すべて津波に流されて、原野のような荒涼とした風景が広がる
塩害のため草木も生えない

去年の震災では、父方の親戚が被災した。
遠い親戚のなかには家屋とともに津波に流されて亡くなった人もいたそうだが、わたしの伯父・叔父や従兄弟たちは奇跡的に無事で、家屋への被害も少なかった。


しかし、震災から1年以上たった今、伯父や叔父が大病を患ったり体調を崩したりしたため、お見舞いを兼ねて被災地に向かったのだった。


海沿いを走る常磐線の「坂元駅」の線路とホーム



坂元駅の駅舎は流され、線路は途切れていた。
線路が続いていた先に立つ煙突から、煙が出ているのが見えるだろうか。
瓦礫が焼却されているのだ。



かつて神社があった場所。赤く塗られたコンクリートは鳥居の残骸。




かつて松林や民家、イチゴ栽培のビニールハウスがあった場所。


点在する瓦礫の山。


新設された焼却炉で処理される瓦礫。



瓦礫の広域処理の是非について、わたしのなかでは未だに答えが見つからない。

瓦礫を広域で処理することによって、放射能汚染が全国に拡散するリスクは当然ある。
また、広域処理には巨額の利権が絡んでいるという(瓦礫処理に積極的な自治体首長や政治家が自分の身内が経営する産廃業者に便宜を図っているなどの)問題もある。


ただ、被災地の多くの人たちが、いまも苦しみ続けていることも事実だ。


瓦礫の山をこの目で見ても、答えが出ないことに変わりはないが、
瓦礫の広域処理をするというならば、広域処理の基準とされる1キロあたり8000ベクレルという基準はやはり高すぎると思う(IAEAの国際基準では、1キロあたり100ベクレル以上のものは低レベル放射性廃棄物処理場で厳格に管理するよう定められている)。
また、データの透明性を極限まで高める必要もあるだろう。


いずれにしろ、復興を遅らせている最大の原因のひとつは、言うまでもなく原発事故である。

これさえなければ、多くの自治体が瓦礫を喜んで受け入れただろうし、わたしのように水や食材や空気の放射能汚染を気にしている人も、復興支援のために、被災地の農水産物を積極的に購入したはずだ。

こうした悲劇を二度と繰り返さないためにも、メリットに比べてデメリットがあまりにも多すぎる原発依存から脱却しなければならない。

もちろん、それには多少の痛みが伴う。
電気によって実現した便利な生活を、今よりも若干不便な数十年前の生活に戻すことも必要なのかもしれない。


















































2012年4月22日日曜日

ボストン美術館展〈プロローグ コレクションのはじまり〉

「ボストン美術館 日本美術の至宝」展は、東京国立博物館140周年記念展だけに、主役級の名品ばかりが一堂にそろった超豪華キャストの展覧会だった。



第Ⅰ部〈プロローグ コレクションのはじまり〉
文明開化後、西洋化が推奨され、日本文化が軽視されていたなか、日本の美術を高く評価し、没落した大名家や廃寺から散逸していた名品を蒐集したフェノロサー、ビゲロー、岡倉天心の功績をたたえるコーナー。


ここでは、日本画革新の運動を興し、新しい画家を育てるためにフェノロサが主宰した「鑑画会」の成果ともいえる、狩野芳崖や橋本雅邦の作品が展示されていた。



4 《騎龍弁天》 橋本雅邦 1886年頃   (数字は作品番号)
 
  鑑画会の2等賞に入賞した作品。
  逆巻く大海原の波間から勢いよく天に昇る龍。その背中には、佳人のように優雅な弁財天が坐っている。幕末までの日本画には見られなかった鮮やかな配色が印象的だった。

東京国立近代美術館に、原田直次郎の油彩画《騎龍観音》が所蔵されているが、あの大画面の絵は、雅邦のこの《騎龍弁天》から着想を得たものだろうか。

革新的な日本画が、革新的な洋画にインスピレーションを与え、相乗効果で斬新な作品が生まれていく。明治という時代の面白さがイメージできる作品だった。



参考:《騎龍観音》原田直次郎、1890年


 フェノロサは、その講演記録『美術真説』(1882年)のなかで、芸術の本質は「妙想(イデア)」(理念の表現)にあると述べている。

 彼は絵画創作上の大きな要素として、線と明暗(濃淡)と色彩の3つをあげ、それに絵の主題を加えた4つがそれぞれ調和をとり、統一をはかることが必要であり、さらにそこに「妙想」を表現する「意匠」と、それを実際の画面にする技の力が必要であると説いている。
 これらの条件がそろってはじめて「妙想」ある絵画が成立するという。

そして、妙想という観点から、フェノロサは日本画と西洋画(油絵)を以下のように比較考察する。

(1)日本画と油絵を比較した時に、油絵ははるかに写生的で実物を模写した写真のようなものであり、写生を重視して「妙想」を失っている。すべての絵には写実を超えた理念がなければならないが、いまの油絵にはそれが欠けているものが多い。日本画のなかでも、円山派や北斎は写生に走って画道の本領から遠ざかった。

(2)ものを描く以上は陰を描くのが当然のようだが、あまりに科学的に絵をとらえようとすると「妙想」を失う恐れがある。その点、日本画はわずかの墨だけで「妙想」を表せる、としている。

(3)日本画は実物を写生的に描かず、線で美しさを強調して、妙想を表す長所がある。

(4)色彩表現の豊かさに頼っているために、油絵は妙想を忘れる傾向がある。

(5)簡潔な方が画面全体を引き締めることは言うまでもない。

このように、フェノロサの考察によると、日本画の欠点とされた陰翳の欠如や線描きを主体とする描写法も、「妙想」を重視する観点からすれば、逆に長所として生かせることになる。
    

フェノロサはたんに自分の好みだけで日本画に傾倒していたのではなく、西洋画との違いを論理的に分析したうえで、日本の美術を評価したことが以上の記述からわかる。

現に、彼の日本美術の収集法はけっして恣意的なものではなかった。彼は日本美術史をシステマティックに整理し、美術品を系統立てて買い取っていったので、今回の展示も順番に鑑賞していくことで、日本の美術史を概観できるようになっていた。


            参考文献:堀田謹吾『名品流転 ボストン美術館の「日本」』  





















ボストン美術館展〈仏のかたち 神のすがた〉

東京国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅱ部は〈仏のかたち 神のすがた〉。
ここは海を渡った仏画や仏像、春日曼荼羅などを紹介するコーナーだった。


5 《法華堂根本曼荼羅図》 8世紀、奈良時代
東大寺法華堂に伝来。日本のみならず東洋美術史的にも重要な作品で、日本に残っていれば国宝に指定されでいただろう名品中の名品。法華経(妙法蓮華経如来寿量品第16 自我偈)の如来の説法の場面が描かれていた。

唐代の山水画に倣った背景には、奥行き感があり、剥落してわかりにくいが、宝の樹に華が咲く誇るという「宝樹多華果」の様子が描写され、仏の住まう天界の様子が再現されていた。
描かれた当初は鮮やかな彩色で、夢のような幻想的な世界が映し出されていたはずだ。



8  《普賢菩薩延命菩薩像》 12世紀中頃、平安時代
5頭の白像の上に、3つの顔を持つ白像(それぞれの白像が6本の牙を持つ)が立ち、その三面の白像に普賢菩薩がまたがっている仏画。普賢菩薩の周りには四天王が取り巻いている。

菩薩の女性のように白い柔肌には艶っぽい隈取りが施され、瓔珞や法具には金銀の錐金が多用され、光背には透かし彫りのような繊細な表現で描かれた、いかにも平安末期らしい耽美的で装飾的な作品だった。



11 《一字金輪像》 13世紀初め、鎌倉時代
「一字金輪」とは、如来の最高の智慧を象徴化したもので、「如来よりも上」とされる密教で最高位の仏のこと。
気品のある理知的で端正な顔立ち、切れ長の目、無駄な装飾を排したシンプルな画面構成など、鎌倉時代の仏画の特徴を備えた優美な画で、仏の顔には当時の人々の理想の美が反映されているように思われた。



23 《弥勒菩薩立像》 快慶、1189年、鎌倉時代
奈良の興福寺に伝来したもの。修復時に見つかった胎内教の記述から、快慶による現存最古の作例とされている。
凛として立つ美しい仏像の姿には一分の隙もなく、完全無欠な造形だ。秀麗で知的な顔立ちでありながら、手足は貴婦人のように優美でほっそりとしている。水晶の玉眼を嵌め込んだ瞳は、見る者がどの位置に立っても、相手を見つめ、その内面を見通すかのように、鋭く澄んでいる。

これほど完璧な仏像が、快慶最初期の作品とは……天才ってこういうことなんですね。
ミケランジェロやベルニーニに何百年も先行して、これほど凄い彫刻家が日本で活躍していたのだとあらためて実感。
この仏像の美しさは図版ではぜったいに伝わってこないので、ぜひ実物をご覧ください!







ボストン美術館展《吉備大臣入唐絵巻》

「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅲ部は〈海を渡った二大絵巻〉。
《吉備大臣入唐絵巻》と、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されていた。


26 《吉備大臣入唐絵巻》 12世紀後半、平安時代
 《吉備大臣入唐絵巻》は、平安時代末期に後白河法皇の発意で制作されたとされている。
  この絵巻は、遣唐使として中国に渡った吉備大臣(吉備真備)が、唐の皇帝によって楼に幽閉され、数々の難題を課せられるが、唐土で客死した阿倍仲麻呂(幽鬼となって登場)の助けを借りながら、難題を次々と解決し、ついには「文選」、「囲碁」「野馬台詩」などを携えて、日本に帰国するまでの冒険譚をビジュアル化したもの。

 制作された当初は蓮華王院(現・三十三間堂)の宝蔵に収められていたが、その後さまざまな人の手に渡り、幕末には茶器蒐集家として有名な小浜の酒井家に伝わるが、大正期に名宝の売却がおこなわれた際に、大阪の古美術商が落札。その後、長い間買い手がつかなかったのを、東洋美術の買い付けのために来日したボストン美術館の富田幸次郎(天心の弟子)が購入した結果、《吉備大臣入唐絵巻》は海外に流出したとされている。


《吉備入唐絵巻》の構図の最大の特徴は、「吉備大臣が幽閉された楼門」、「唐の宮廷の門」、「唐の宮殿」という同一構図が反復する単純さであり、それゆえに、構図の複雑な《伴大納言絵巻》や《平治物語絵巻》に比べると、芸術的価値が低いとされてきた。


《吉備大臣入唐絵巻》のこのような評価に対して、日本史家の黒田日出男氏は著書『吉備大臣入唐絵巻の謎』(小学館)のなかで、同絵巻における錯簡(3箇所)の存在を指摘することによって反論している。

●黒田日出男氏が指摘した3箇所の錯簡

(1)第2後半には、帝王に命じられた宝志和尚が難読の「野馬台詩」を書いている場面が錯簡として入っている。

(2)第1段後半には、吉備大臣が日月を封じたために、唐朝の宮廷が大騒ぎとなっている場面の錯簡。

(3)第5段後半には、日月が封じられて唐土が真っ暗になった原因を占うべく、老博士らが宮殿に参内する場面が錯簡となっていた。


このように黒田氏は、錯簡の存在を指摘したうえで、「従来、現存『吉備大臣入唐絵巻』は、冒頭の詞書と後半部分だけの欠失が指摘されてきたのだが、そうではなかった。三つの段に錯簡があり、失われたと思われていた絵巻後半の三つの段が、錯簡状態で残っていたのである」としている。


黒田氏の指摘に従って、《吉備大臣入唐絵巻》を並べ替えてみると、絵巻の構図の冗漫さは解消され、ストーリーの流れもすっきりするので、同絵巻の醍醐味を存分に味わいたい方は、展覧会に足を運ぶ前に、『吉備大臣入唐絵巻の謎』を一読することをお勧めします。



さらに、この絵巻にもっと関心がある方にお勧めなのが、倉西裕子『吉備大臣入唐絵巻 知られざる古代中世一千年史』(勉誠出版)。

詳しい内容は割愛するが、倉西氏によると、吉備大臣が幽閉された到来楼と弥生時代の高層建築物(出雲大社など)、吉備大臣と卑弥呼、唐の宮殿と清涼殿(平安朝の内裏)とが、それぞれダブルイメージされて描かれているという(いささか牽強付会に感じるが)。

倉西氏の論考で興味深かったのが、唐の宮殿と清涼殿のダブルイメージを、この絵巻のプロデューサーである後鳥羽法皇が絵師に意図的に描かせたのではないか、という指摘だ。

同氏はこのように述べている。
唐王朝の宮殿と清涼殿のダブルイメージにも、院政と天皇親政という権力の二重構造の問題を抱えていた平安末期の政治状況を映し出す後白河法皇の意図があったようである。後白河法皇のの院御所が到来楼であるならば、対する天皇の清涼殿は唐王朝の宮殿となろう。絵巻は、院政側、すなわち到来楼側の後白河法皇の視点から描かれているのである。」


また、倉西氏は、到来楼に閉じ込められた吉備大臣に対して、後鳥羽法王が強い関心を寄せたのは、法王自身がその生涯で7度以上も幽閉されたからではないかと述べている。

そして後鳥羽法皇の第1回目の拉致・幽閉となったのが、平治の乱である。

今回の展覧会では、《吉備大臣入唐絵巻》に続いて、後鳥羽法皇拉致の場面を劇的に描いた、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されており、ことさら感慨深いものがあった。



以上、ぐだぐだと書き並べましたが、予備知識がなくても、絵を見ているだけでも十分に楽しめる、劇画チックで表情豊かな、ユーモラスな絵巻物でした。
とくに、吉備大臣と鬼が空中飛行する場面や、囲碁の勝負で吉備大臣が碁石を飲みこんじゃう騒動の場面は必見!
鳥獣戯画と並んで、日本アニメの元祖なんじゃないかな。




ボストン美術館展《平治物語絵巻》

27 《平治物語絵巻》「三条殿焼討巻」 13世紀後半、鎌倉時代

平安末期(1159年)に起きた平治の乱の100年後に制作された《平治物語絵巻》は、本来は15巻にもおよぶ大作だったが、現在は「三条殿焼討巻」(ボストン美術館所蔵)、「六波羅行幸巻」(東京国立博物館所蔵)、「信西巻」(静嘉堂文庫美術館蔵)の3巻と、色紙状の数葉のみが現存している。

「三条殿焼討巻」は、平治の乱のきっかけとなった、藤原信頼と源義朝による後白河上皇の拉致と御所三条殿の焼討の場面を描いたもの。

焼討の炎を見て駆けつける公卿たちや、逃げ惑う人々、衝突する牛車、牛車に轢かれる人など、都の争乱の混乱ぶりがじつにドラマティックに描かれている。

生き物のように勢いよく燃え上がる炎ともくもくと立ち上る黒煙の描写は圧巻!
きっとこの絵巻の絵師は、どこかで火災が起きるたびに一目散に駆けつけて、スケッチしたのではないかなあ。都を焼き尽くす炎が、最小限の描線で巧みに描かれていた。

三条殿のなかでは、凌辱されたと思われる、胸をさらした女房たちの無残な屍が折り重なり、抵抗する人々の首や腹から鮮血がほとばしり、塀の外では信西の生首が薙刀にくくりつけられてさらされるなど、地獄絵図のような凄惨を極めた場面がリアルに描かれている。

平安末期に制作された《吉備大臣入唐絵巻》には、どこかほのぼのとした、ユーモラスでのどかな雰囲気が漂っていたのに対し、鎌倉後期に描かれた《平治物語絵巻》は、厳格で透徹したリアリズムと、見る者の猟奇的嗜好を刺激する、容赦ない残虐性で彩られている。

全体を俯瞰する角度から描かれているのだが、まるで一大スペクタクル映画の戦闘シーンのように、迫力に満ちていた。



〈番外編〉東京国立博物館・国宝室(本館2階)

《平治物語絵巻》「六波羅行幸巻」  13世紀後半、鎌倉時代

東博の常設展では、国宝《平治物語絵巻》「六波羅行幸巻」が、展示されていた。
「六波羅行幸巻」は、内裏に幽閉された二条天皇が脱出を図り、清盛の六波羅邸に逃げ込む場面を描いたもの。この巻は、江戸時代には大名茶人・松平不昧公が所蔵していた。


第1段:天皇と中宮が乗る牛車の御簾を上げて中をあらためる武士たち

第2段:美福門院の六波羅御幸を護衛する人々



第3段:六波羅邸の武者揃い


第4段:天皇の脱出を知ってあわてる信頼



人々の表情やポーズや動きが場面に即して的確に描かれているのがこの絵巻の魅力だ。
躍動感に満ちた壮大な「三条殿焼討巻」とあわせて見ると、楽しさが倍増する。


この「六波羅行幸巻」で注目したいのが、中年の「牛飼い童」。

遠目で見れば牛飼い「童」だが、クローズアップしてみると、むさくるしい中年男


橋本治の『ひらがな日本美術史2』には面白いことが書いてある。


平安時代の”牛飼い童”は、長い髪を後ろで一つにまとめ、水干を着て裸足で牛を引く。これはあきらかに”少年の風俗”なのだが、しかしだからといって、すべての”牛飼い童”が少年だったわけじゃない。
(中略)
”牛飼い童”は職業で、彼がその職業についている限り、彼は”童”を卒業することが出来ない。だから、牛飼いの童の中には、こういう陰鬱でごっつい中年男もいた。

 院政の時代とは、摂政関白という、たった一人の男に牛耳られていた優雅な抑圧の中から複数の男たちが誕生する、猥雑な時代なのだ。保元の乱も平治の乱も源平の合戦も、こういう複数の男たちの自己主張から生まれる。(中略)
 そこには、さまざまな男たちがいる。品のいい若武者も、ごっつい牛飼いの童も、昔ながらの貴族も。野蛮で生々しくて雑駁で優雅な《平治物語絵巻》は、こうした院政時代の内実を十分に消化吸収した後の鎌倉時代になって生まれた、新しい絵巻物なのである。
――橋本治『ひらがな日本美術史2』



橋本治のいう「野蛮で生々しくて雑駁で優雅な《平治物語絵巻》」は、この春、東博の特別展・常設展、そして静嘉堂文庫美術館で見ることができます。

現存する3巻を1度に鑑賞できるまたとない機会なので、時間を見つけて、静嘉堂文庫美術館「東洋絵画の精華」展にも行ってみようと思います。






ボストン美術館展〈華ひらく近世絵画〉〈奇才 曾我蕭白〉

東京国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅵ部は〈華ひらく近世絵画〉。
ここでは、安土桃山時代から江戸時代までの近世絵画が展示されており、天才絵師たちによる華麗な競演となっていて、非常に見ごたえがあった。


44 《龍虎図屏風》 長谷川等伯、1606年、江戸時代
第3部の展示室に入って真っ先に目に飛び込んでくるのが、この大画面の龍虎図。
龍虎の形などは、大徳寺所蔵の牧谿の《龍虎図》から取り入れたとされている。

画面の左右に描かれた対峙する龍と虎。
龍のまわりにヒゲや波の曲線、虎の足元には角張ってゴツゴツした断崖を描くことで、「陰」と「陽」の力の拮抗と「氣」のバランスが見事に表現されている。

款記には、「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」とある。東伯晩年の傑作。



48 《十雪図屏風》 狩野山雪、17世紀前半、江戸時代
詩文集『皇元風雅』の「十雪題詠」を典拠とするこの画は、雪にまつわる10の話をもとにしたもの。
作者は、狩野山楽の婿養子で、京狩野三代目の山雪。

岩や楼閣や庵は、矩形や三角を組み合わせた幾何学的な構成で描かれているが、ふわりと積もった雪のぬくもりや軽やかな感触、雲が立ち込める空、湿り気を帯びた空気などは有機的に表現されている。
江戸狩野には見られない、山雪独特の個性的な造形意識が楽しめる絵だった。


49 《四季花鳥図屏風》 狩野永納、17世紀後半、江戸時代
京狩野三代目の永納による金地濃彩の花鳥画。豪華ななかにも、桃山時代や江戸狩野とは異なる繊細さや、琳派のような装飾性が見られた。京らしい華やかで典雅な作品。



最後のコーナーは〈奇才 曾我蕭白〉の独壇場。
そこには蕭白ワールド全開の、奇天烈な空間が広がっていた。

61 《龐居士・霊照女図屏風(見立久米千人)》 曾我蕭白、1759年、江戸時代
 表面的には、娘の霊照女と一緒に、竹籠を売って暮らした唐代の隠者、龐居士(ほうこじ)を描いたものだが(現にこの絵では仙人らしき人物が竹籠をつくっている)、川で洗濯する女のふくらはぎを見て欲情し、神通力を失って落下した久米仙人の話(「今昔物語」)も重ね合わされている。

 好色そうな顔つきの隠者(じつは久米仙人)や、煩雑ともいえるほど緻密に描かれた岩や植物には、濃墨と金泥が多用され、蕭白特有の粘着質な画面に仕上がっている。

蕭白のほかの作品と同様に、この画にも無数の斑点が、まるで小虫が画面にたかっているように執拗に描かれており、それが不快なざわめきとノイズを起こして、不安を掻きたてる。

蕭白は決して、美しく心地よい画を描こうとはしていない。
人の心を波立たせ、神経を逆撫でし、感覚を刺激することを意図したように思える。

蕭白の作品を12点も蒐集したフェノロサも、彼についてこのように述べている。
曾我秀文と蛇足の子孫である蕭白という絵師さえ、古い中国様式の人物・山水をおろかにも蕪村に似た狂的な画風で制作している」。

 つまり、フェノロサ自身は蕭白の絵が好みではなかったが、作品の芸術的価値については高く評価していたのだろう。

 わたし自身もこの展覧会で見るまでは、蕭白については異才とは思うが、どちらかというと不快感を催すので、あまり好きにはなれなかった。しかし、本展覧会の目玉のひとつである《龍雲図》を見て、そうした印象は覆された。



62 《龍雲図》 曾我蕭白、1763年、江戸時代

これはもう、ひと言でいうと「凄かった!」です。
蕭白、恐れ入りました!
          
この画はビゲローが収集したものだが、長いあいだ贋作扱いされて、ボストン美術館の倉庫の隅に眠っていたのを、同美術館の学芸員が偶然発見し、以来、蕭白の虜になったというエピソードがある。

《龍雲図》は、もとは寺院の連続構図の襖絵だったものだが、両側の八面分だけ剥がされたものらしく、画面中央の胴体部分が欠けている。
両側をつなぎあわせたものだが、見ていてそれほど違和感はないばかりか、その分、龍の顔がクローズアップされて圧倒的なパワーで迫ってくる。

実際に、蕭白は一気呵成に描いたらしく、余白部分には濃墨が飛び散り、龍の爪や鱗も迷いのない一筆で、鋭く、勢いよく描かれている。

金属質な鱗に覆われた龍の尾は、キングギドラを思わせる不気味な光沢を放ち、白波は触手のようにくねくねとうねりながら、何かを求めて彷徨っている。
グロテスクだけれど、どこか剽軽な龍の表情は蕭白ならでは。
(勝手な想像だが)本展覧会を訪れる人で、この画にノックアウトされない人はいないのではないだろうか。



*****

この展覧会全体を通していえるのは、作品の保存状態がきわめて良好なことだ。
ボストン美術館の作品の管理・保存技術が優れているのもあるだろうが、やはり気候の影響も大きいのではないだろうか。
最近ではたいていの美術館で空調・除湿設備が完備されているが、湿潤温暖な日本で、傷みやすく繊細な日本画や日本美術を保護・保存することの難しさをあらためて思い知らされた。

作品の劣化を遅らせた(アンチエイジングになった)という点では、日本美術が海外に流出したことは、ある意味では幸いだったのかもしれない。









遅咲きの桜

4月も半ばを過ぎた週末、上野公園に行ったら、1本だけ満開の桜が。


「大器晩成」サクラ

春を告げる早咲きの桜も胸躍るけれど、葉桜のなか、ひときわ華やかに咲く遅咲きの桜って、
なんともいえない風情があっていいものです。

東京国立博物館の常設展では、この時期ならではの春らしい作品が展示されていました。

《渓山春色》 松林桂月、1935年

江戸時代に独特の発展を遂げた日本南画の近代化に尽力した松林桂月。
金箔を裏地に施した、精緻で豪華な作品でした。
松林桂月は、この展示で初めて知ったけれど、装飾性と写実性がバランスよくミックスされた素敵な絵でした。

《吉野山図》 狩野主信、江戸時代



《桜山吹図屏風》 伝俵谷宗達、17世紀

桃山時代らしい碧緑の丘に、それぞれ白い胡粉と金箔で描かれた山桜と山吹が咲き誇る風雅な下絵に、本阿弥光悦が和歌を書写した色紙が貼られています。

宗達・光悦という稀代の名コンビが生み出したこの絵は、あまり知られてないけれど、隠れた名品でした。

ただ、惜しむらくは、東博は特別展のライティングは最高なのですが、常設展の照明は特別展ほどにはこだわって施されていないようなので、この絵もかなり見えにくく、どんよりとした印象でした。
(ここに貼りつけた画像の明るさはデジカメで修正しています。)

特別展を見た後で常設展を見ると、照明の大切さをあらためて実感します。



《桜図》 広瀬花陰 19世紀、江戸時代


広瀬花陰も今回初めて知りましたが、さりげないシンプルな構図のなかに、時を経た幹から噴き出すように咲く桜の花の生命力と華やかさが表現されていて、心惹かれる絵でした。
花陰のほかの作品も見てみたい気がします。