2012年4月16日月曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想

ふさふさと渦を巻いた髪は、彼の姿に荘重な趣を添えていた。顔は非常に華奢で、ほとんど女のような美しさに充ちていて、声は堂々とした偉大な体にも似ず、細くて妙に甲高く、非常に気持ちのいいものであったが、男らしいところはなかった。(中略)その美しい手になみなみならぬ力が潜んでいることを、ジョヴァンニは悟ったけれど、指などもすらりと長くほっそりとしていて、まるで女の手のように優しかった。
                                                     
         ―メレシコーフスキイ、米川正夫訳 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 神々の復活』


花散りはてし4月の第3日曜日、Bunkamuraで開催されている『レオナルド・ダ・ヴィンチ』展へ、愛しい《ほつれ髪の女》に会いにいった。

本展覧会は4部構成になっていて、第Ⅰ部は〈レオナルド・ダ・ヴィンチ時代の女性像〉。
このコーナーでは、レオナルドから影響を受けたと思われる同時代の画家による女性像が展示されていた。


1506年頃にラファエロとその工房が手掛けたとされる《カーネーションの聖母》は、一般にレオナルドの真筆といわれている《ブノワの聖母子》(一部加筆)の構図を借用している。

《カーネーションの聖母》ラファエロとその工房、1506年頃

《ブノワの聖母子》レオナルド・ダ・ヴィンチ、1478~80年

比べてみると、衣襞の表現や肉付きのヴォリュームと陰影、質感豊かな流れる髪の表現などに大きな違いがあることが分かる。

ラファエロとその工房が写実性をやや犠牲にして、理想化された聖母子像を描いたのに対し、レオナルドは聖母子が醸すと期待される厳かさよりも、その厳密な人間観察を反映した肉体表現・表情描写を作品に効果的に生かすことに徹している。
そのため、見る人によっては、レオナルドの《ブノワの聖母子》が美しくない(もっといえばグロテスクな)聖母子像に映るかもしれない。

このように、レオナルドに影響を受けた画家たちの作品と比較することで、彼が追求した「美の理想」像が見えてくる。


実際に、レオナルドは「美は善ではない」と言っている。

彼にとっては理想化された美しさよりも、解剖学に適った科学的な正確さのほうが重要であり、それが彼にとっての「美の理想」だったのではないだろうか。




このコーナーで白眉だったのが、ボッカッチョ・ボッカッチーノの《ロマの少女》(1504-05年)。

青紫色のターバンを巻いた金髪の少女が、何かを訴えかけるような目で、こちらを見つめている。

真紅のショールからのぞく白いサテンのドレスには、宝石をちりばめた黄金の縁取りが施され、首元と額には、東洋風の精緻な宝飾品があしらわれている。
深く輝くエメラルドやルビーに劣らないほどみずみずしい透明感をたたえた少女の瞳と、なめらかで潤い豊かな肌の質感。

まるで魂が宿り、脈動しているような不思議な絵だ。
絵の中に閉じ込められたジプシーの少女が、時のない異次元からじっと此岸を見つめているような、そんな絵だった。

ボッカチーノという画家をこの展覧会で初めて知ったが、もっと評価されてもいいような気がする。



第Ⅱ部は、レオナルドや彼の弟子、あるいはレオナルドから影響を受けた画家たちの作品を紹介する〈レオナルド・ダ・ヴィンチとレオナルド派〉。

このコーナーには、今回の目玉である《ほつれ髪の女》と《岩窟の聖母》が展示されていた(後者については、別項で詳述します)。

《ほつれ髪の女》は、板の地に筆と鉛白で描かれたデッサンで、レオナルド50代半ばの作品。

《ほつれ髪の女》1506-08年
伏し目がちに描かれた物静かで優美な女性の表情は愁いと慈愛を含み、どこか瞑想的で、秋篠寺の伎芸天を彷彿とさせる。

髪は結わずに、ナチュラルに乱れたままで、華美な衣服や宝飾品もまったく描かれていない。
この女性が生まれながらにもつ彫刻のような端正な顔立ちと、内面からにじみ出る深い精神性とが、類まれな美しさを生みだしている。

レオナルドは言う、「人間のさまざまな美のうち、道ゆく人をも引きとめるのは、たくさんの装飾品ではなく、美しい容貌だということを君は知らないのであろうか?」と。

つまり、(無駄な抵抗ともいえる)人工的ないっさいの装飾を排して、神から与えられた美そのものを、不世出の天才が描いた「美の結晶」が、この《ほつれ髪の女》なのだ。

この展覧会の名誉監修者カルロ・ペドレッティは、「レオナルドの卓越した美の中でも、《ほつれ髪の女》は最高のものであり、《モナ・リザ》や《最後の晩餐》をも凌駕する」と言っているが、わたしもレオナルドの作品のなかでは、この絵がいちばん好きかな……。

デッサンが最高作品と評されるのは、素描の名手で「未完の画家」と称されたレオナルドならではだろう。
未完であるがゆえに甘美な余韻が漂い、見る者の想像力をかきたてる。

(この絵のモデルは、レオナルドのアニマの化身なのか、彼の母親なのか、それとも彼のアニマと
母親と理想の女性像をブレンドした「幻の女」なのか……?)

余白の美、未完の美を体現した珠玉の作品だった!



第Ⅲ部〈「モナ・リザ」イメージの広がり〉は、モナ・リザの模写やモナ・リザもどきの絵画など、モナ・リザの「バッタもん」のオンパレードのコーナー。

こうした二番煎じの作品群を見ることの効用は、あまりにも偏在し、見慣れてしまった結果、何の感興も催さない陳腐な絵画に堕してしまった「真正モナ・リザ」の素晴らしさを再認識できることかもしれません。



第Ⅳ部は〈「裸のモナ・リザ」、「レダと白鳥」〉というテーマで、レオナルドの弟子たちが描いた「裸のモナ・リザ」がずらりと展示されていた。

「裸のモナ・リザ」はレオナルドの最後の創意だったという研究者もいるらしいが、それはどうかなあ……。
あの神秘的な「モナ・リザ」が裸にされた絵画の群れを見て、なんだか悲しい気持ちになった。
こういうことをレオナルドがほんとうに願ったのだろうか。

このコーナーでいちばん興味深かったのが、フォンテーヌブロー派の《浴室のふたりの女性》だ。

深紅のカーテンを背景にした浴槽のなかに、二人の裸の女性が入っている。
ひとりは下半身を湯船につけて見事な胸をさらし、もうひとり(身体つきは青年のようにがっしりしている)は浴槽に後ろ向きに腰かけて、身体をひねって振り向いている。
ひとりの女性が、もうひとりの女性に指輪を渡すようなしぐさをしているが、指輪そのものは描かれていない。

この《浴室のふたりの女性》は、ルーブル美術館蔵の《ガブリエル・デストレとその妹》との類似性から推察すると、おそらくアンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレとその妹を描いたものだろう。
(ガブリエル・デストレは、アンリ4世の子を妊娠中に毒殺されたとされる、宮廷の権謀術数の犠牲になった悲劇のヒロインでもある。)

いかにもマニエリスム的な倒錯した官能美にあふれていて、これが「裸のモナ・リザ」の系譜なのか……と思うと、いとおかしく、感慨もひとしおだったことであるよ。