2012年4月16日月曜日

《岩窟の聖母》 あれは天使じゃない!?

Bunkamuraザ・ミュージアムの「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展で、《岩窟の聖母》を見ていたたとき、あるものを発見して背筋がぞっとした。

周知の通り、《岩窟の聖母》には2つのヴァージョンがある。
最初のヴァージョン(ルーブル美術館蔵)は、ほぼ全面的にレオナルドの創意に基づいて制作されたのに対し、描き直された第2ヴァージョン(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)は、共同制作者であるデ・プレディス兄弟主導で描かれたと考えられている。


《岩窟の聖母》(ルーブル美術館蔵)


《岩窟の聖母》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)

ルーブル美術館蔵の《岩窟の聖母》と、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵のそれとの違いは、イエスと洗礼者ヨハネとの区別がつきやすいよう、ヨハネにそのアトリビュートである十字架状の杖が加えられたことや、ヨハネを指し示す天使のポーズが削除されたこと、聖母子とヨハネに光輪がつけられたこと、天使の背部に天使らしい羽根が生えたことなどが挙げられる。

しかし最大の違いは、ルーブル・ヴァージョンに見られる、精妙な空気遠近法による背景や、人物像の深い陰影、悠久の時を表現した峨々たる巌の表現、鍾乳洞のように水気を帯びた洞穴の描写、そして天使の姿の奇形性が、後者にはない点だ。

ロンドン・ヴァージョンでは、岩の表現は平板で、遠景は奥行きに欠け、空気にも湿り気はなく、人物の肌の質感は無機的で、テカテカした光沢に包まれている。


さて、今回来日したのは、個人蔵であるためにこれまでほとんど人目に触れることのなかった《岩窟の聖母》の第3ヴァージョンだ。専門家のなかにはこれを、レオナルド・ダ・ヴィンチとその弟子たちに帰属すると考える人もいる。

今回来日した《岩窟の聖母》、個人蔵

個人蔵の《岩窟の聖母》は構図の上では、ほぼルーブル・ヴァージョンと同じ(マリアの光輪は後の加筆)だが、肌の質感や陰影、髪型や水辺の植物の種類、遠景の表現には違いが見られる。

わたしはこの絵の前に4~5回くらい立ち、トータルで30分くらいは見ただろうか。
肉眼やミュージアムスコープでさまざまな角度から眺めたが、見れば見るほど不思議な絵だった。
とくに、天使が奇妙なのだ。

『ベニスに死す』のタッジオのように神秘的な美をもつ天使だが、
そもそも、これは天使なのだろうか。
見る者に謎かけをするような、冷たく、静かな微笑を浮かべてこちらを見つめている。
そのまなざしに耐えきれず、思わず眼をそらして、視線を下方へ向けると、そこには異様なものが描かれていた。

むさくるしい大男のものとしか思えない”足”である。


「天使」の下に、不気味な”爪先”が見えるのがわかるだろうか?

天使の下の、ありえない位置に、唐突に現われたグロテスクな”爪先”。
これは、いったい……?

考えてみると、洗礼者ヨハネを指し示す右手も、天使の顔の大きさと比べると、異様にデカい。
まるで天使が二人羽織りをしていて、別の誰かの手が天使の横から出ているかのようだ。

それに、赤いマントで隠されているが、天使の背中の盛り上がりはいったいなんだろう?

さらに、天使の首の下から翼らしきものが生えているが、天使の羽根にしては、いびつな形をしているし、そこには、松皮のようなゴツゴツした気味の悪いイボもついている。

異常な足の位置と、手の大きさ、背中の奇形的な盛り上がり、鷲のような翼……。
これはどう見ても、天使ではなく、スフィンクスかキマイラの一種だろう。


《岩窟の聖母》の第1ヴァージョン(ルーブル・ヴァージョン)が注文主から受け取りを拒否された一因が、この反キリスト的な「天使」(じつはキマイラ)の存在だったのではないだろうか。

その証拠に、最終的に納品された第2ヴァージョン(ロンドン・ヴァージョン)では、天使の造形からは鵺のような奇怪な要素はいっさい排除され、いかにも御使いらしい、愛らしく美しい姿形に描き換えられて、絵画全体が「無毒化」されている。

レオナルドがなぜ、このようなキマイラ的な存在を描いたのかは、まったくの謎だが、この得体の知れない存在のもつ妖しさこそが、レオナルドが描きたかったものではないだろうか。


永遠に解けない呪いのような強力な魔力を放つ聖母子像を描ける者が、レオナルドのほかにいたとは到底思えない。
模写や贋作では、時を超えて人を魅了する、このような呪力は持ちえないのだから。