2011年8月28日日曜日

NHK短歌入選 ~短歌セラピー~

                
NHKから送られてきた入選歌のポストカード


絵心のない人が、ある日とつぜん、何かに憑かれたように絵を描きはじめるように、詩心とは無縁だった夢ねこに、ある時とつぜん歌心が芽生えて、生まれて初めて詠んだのが上の一首です。
 
きっかけは2か月前に訪れたムットーニの展覧会。
http://www.muttoni.net/info/30.htm
 
《WING ELEMENT-EDGE OF RING》という、この世ならぬ美しい作品に身体が震えるほど感動して、神の声をきくようにして生まれたのがこの歌でした。
 
せっかくだからと、『NHK短歌』という番組に投稿したところ、一週間後にNHKから電話がかかってきて、入選の報らせを受けました。
NHKの放送です。
http://www.nhk.or.jp/tankahaiku/tanka_tokusen/index.html
8月28日放送の「硝子」のところをクリックしてください。
「NHK短歌」10月号に掲載されるそうです。

いきなり一流の歌人の方に指導していただけるなんて、まさに、beginner's luckですね。
 
詩人気取りの高校生が詠んだ歌のような気がしないでもなく、すこしげんなりしますが、
今読み返すと、この歌のベースにはリルケの『ドゥイノの悲歌』の存在があったのかもしれません。
 
「第四の悲歌」で、リルケはこのようにうたっています。
 
 

こうしてついにわたしの凝視の重みに対抗せんため、天使が出現する、
人形の胴体を高々と踊らせる演戯者として。
わたしの凝視がそれを呼び出さずにはいないのだ。

天使と人形、そのときついに演戯は現前する。
そのとき、たえずわれらがわれらの存在のそのものによって
分裂させていたものが合体する。そのとき、
われら人間の四季のめぐりは、はじめて
全き運行の円環となって結ばれる。

われわれの頭上高く
そのとき天使は演戯する。
         死へあゆみつつあるわれら人間よ、
われらがこの世でしとげるすべてのことは、
いかに仮託にみちているかを、われらは思い知るべきではないか。
そこではいっさいが、それみずからではない。

 
リルケのいう「天使」とは、人間の分裂的な在り方を超えた全一性をもたらす者であり、存在の真如の相の具現者であり、おそらくニーチェがいうところの「超人」なのかもしれません。
(リルケは、ニーチェが想いを寄せたルー・アンドレーアス・ザロメから精神的・芸術的に多大な影響を受けています。)
 
「心の舞台で、いっさいの世俗的・人間的関心をはなれて、天使と人形によって行われる真の演戯とは、リルケのめざす存在の円現境の実現であろう。天使の出現と人形の生動によって実現された存在の円現境である」と、『ドゥイノの悲歌』の訳者である手塚富雄先生は解説されています。
 
 
主観と客観が一如となった全一的存在である天使。
その天使を讃え、天使に語りかけるために、リルケは詩をつくったのです。
 
 
天使にむかって世界をたたえよ、言葉に言えぬ世界をではない。天使には
おまえはおまえの感受の壮麗を誇ることはできぬ。
万有のなかで天使はよりつよい感じ方で感じている、
そこではおまえは一箇の新参にすぎぬのだ、だから
天使にはただ素朴なものを示せ。世代から世代にわたって形成され、
われわれのものとして手に触れ、まなざしを注がれて生きている素朴なものを。
天使に物たちを語れ。



 
心を病んでいた夢ねこにとって、短歌という定型詩を詠むことは、限られた空間のなかで想いや無限の世界を表現する箱庭療法のようなものでした。
 
荒涼とした心の闇のなかで見つけた、詠歌という、光り輝くひと粒の宝石。
 
夢ねこも、夢ねこの、愛しい「天使」に捧げる歌を詠んでいきたい。
 
                
                        

2011年8月27日土曜日

孫文と梅屋庄吉展へ


夏休みなので人ごみを避けるべく、東京国立博物館で開催されている比較的地味な『孫文と梅屋庄吉展』へ行ってきた。

しかし意外にも、会場はかなり混んでいた。
わりと人気のある企画なのだなと、少しびっくり。

この展覧会は、辛亥革命を起こして中国の近代化を推し進めた、中華民国&中華人民共和国の「国父」孫文と、日本に亡命した孫文を物心両面にわたって支援した日本映画のパイオニア梅屋庄吉を中心とする人々の写真展である。

20世紀初頭の紫禁城や北京の様子、孫文をはじめ胡漢民、許崇智、蒋介石などの革命家の写真が展示されていた。

印象的だったのは、孫文と梅屋庄吉それぞれの筆による「書」だ。

孫文が書いたのは「同仁」という言葉。
これは、唐宋八大家の一人である韓愈の「聖人一視、而同仁、篤近而挙遠(聖人は一視にして同仁、近くを篤く遠きを挙ぐるなり)」に由来する言葉で、差別なくすべてのものを平等に愛することを意味する。

いっぽう、梅屋庄吉の書には「積善家」と書かれていた。
「積善家」とは、『易経』の「積善之家、必有余慶(積善の家には、必ず有慶あり)」からとってもの。

両者の生き方や心構えを見事に反映した言葉である。

当時の中国の革命家には日本に留学や亡命した人が多かったし、彼らを手厚く遇し、支援した日本人も少なからずいたことを改めて実感させられた。
つまり、かつての中国の思想的エリートたちは日本に目を向けていたことになる。
それに引き換え今はどうだろう。
日本に留学したいと思う中国の思想的エリートなど、はたしているのだろうか。

そんなことを考えながら、この展覧会を後にした。

博物館できもだめし ~ 妖怪、化け物

東博本館のアールデコ式ステンドグラス

『孫文と梅屋庄吉』展をそそくさと後にして、夏休みの特別企画『博物館できもだめし ~ 妖怪、化け物大集合』展へ。
妖怪好きの夢ねことしては、じつはこちらがお目当てなのだ。わくわく。


鳥山石燕『百鬼夜行拾遺』の「道成寺の鐘」

鳥山石燕は、この「道成寺の鐘」のページしか展示されていなかったので、少し残念。
もっと観たかったなあ。



狩野晴川院養信『百鬼夜行図』模本

江戸時代の人って、ほんと、妖怪好き。
想像力豊かだ。


歌川国芳『百物語化物屋敷の図』
                    
国芳の『百物語化物屋敷の図』の「林屋正蔵工夫の怪談」。
百物語を終えたとたん、妖怪たちが一斉にあらわれたところの画。
初代林屋正蔵(五代目より「林家」となる)は、怪談を得意とした噺家で、この「化物屋敷」は彼が考案したとされている。
やっぱり、国芳の妖怪画は冴えてる。
怖いというよりも、どこかひょうきん。




国芳『狐ばなし』
これも国芳の妖怪画。                 
左奥の狐の頭に藻が載っているのは、九尾の狐「玉藻の前」に由来するのだろうか。




博物図譜の「河童」
                          
江戸時代の博物図鑑では、「河童」はヘビ類とヒキガエル類の間と、魚類に収められていた。
ということは、実在すると思われていたのだろうか……?



『上方震下り瓢盤鯰の化物』

地震に悩まされるのは、今も昔も変わらない。



狩野曇川『不動利益縁起絵』
            
陰陽師・安倍晴明による祈祷を描いたもの。
奥にいるのが疫病神、晴明の後ろに控えているのが式神だろうか。



国芳『天狗の往来』


『博物館できもだめし』展は子供用の企画だったらしいが、けっこう楽しめた。

鳥山石燕展とか、もっとやってほしいな。





           


          
        
 
                
            
                       

東博常設展 ~仏像~

不動明王(木造・平安時代)
常設展は夏休みでも空いている穴場。
ゆっくりと見てまわることができた。

この不動明王は平安時代(11世紀)のものだけれど、鎌倉時代のものかと思うほど、写実的で気力がみなぎっている。
新時代の到来を予感させる迫力のある作品だった。



不動明王の邪鬼

不動明王の腹部にある獅噛(しがみ)と踏みつけている邪鬼の姿もユニーク。



天王立像(平安時代、10世紀)


平安前期らしく、衣紋の彫りが浅く、顔立ちにもシャープさがなく、ややおっとりしている。




五大明王像(平安時代)

明王がセットで五体そろうことは珍しい。
どことなくジャニーズのタレントを彷彿させる。



右前が降三世明王像

煩悩の根本である三毒(貧欲、瞋恚、愚痴)を降伏させるのが、この三面八臂の降三世明王。
足元には、シヴァ神である大自在天とその妃の鳥摩(うま)を踏みつけている。


踏みつけにされている大自在天と鳥摩

なぜ仏教の明王が、ヒンドゥー教のシヴァ神(大自在天)を踏みつけにしているのか?
その理由については、仏教の教えに従わなかった大自在天を降伏させたからとか、過去・現在・未来の三界を支配していたシヴァ神を降伏させたから(降三世の名の由来はここにある)など、諸説ある。           
降三世明王がシヴァ神と同じ三眼三面八臂の姿をしていることから、おそらくヒンドゥー教神としてのシヴァは降伏させられ、新たに仏教の神となったシヴァの姿が、この降三世明王なのではないだろうか。

明王の図像には宗教シンクレティズムがとりわけ顕著に現れているので、見ていて非常に面白い。          



大威徳明王像

文殊菩薩の化身と呼ばれ、青い水牛に乗っているのが大威徳明王。
六面六臂六足。
降焔摩尊とも称され、閻魔大王・焔摩天と起源が同じだと考えられる。
いかにもインド的な神様だ。



摩耶夫人像(銅造、飛鳥時代)
                                                                  
摩耶夫人(まやぶにん)が庭園を散策中に木の枝に右手を伸ばしたところ、産気づいて、(なんと)脇から釈迦が生まれたという伝説にもとづく。
夫人の脇から顔を出した釈迦が、「やあ!」という感じで右手を挙げているのが愛嬌たっぷり。


                          

阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)
                                                                    
鎌倉仏像らしく、水晶の玉眼が嵌め込まれた秀麗な仏像。
おそらく慶派仏師によるものだろう。




十二神将立像・子神(鎌倉時代)

子神なので、頭にネズミが載っていて可愛い!
なんて生き生きとした姿だろう!
ほんとうに鎌倉時代の仏像って、優品が多い。



十二神将立像・巳神


久々に仏像を堪能できて、充実した一日だった。

                                     
                   
                          

                                      
 

東博常設展 ~絵画~


吉田博《精華》(1909)

風景画家の吉田博が描いた神話的な油彩画。
男たちを獣に変えたというギリシャ神話の魔女メディア、あるいは泉鏡花の『高野聖』を思わせる作品だ。



満谷国四郎《二階》(1910)


背景の木々のタッチがセザンヌっぽい。
夏の午後のけだるい光が日本女性の愁いをおびた表情を引き立てている。



今村紫紅

夭折した今村紫紅の絵。
日本画なのに、スーラの点描画のような筆致なのが当時としては斬新だった。


河鍋暁斎《地獄極楽図》
                  
鬼才・暁斎の《地獄極楽図》。



亡者の生前の悪行が鏡に映し出される
                                    


それでも中には極楽へと引き上げられる亡者もいて、救いも用意されている。
                              
    
ちなみに、今期の国宝展示は《一遍上人絵伝》でした。            



東博常設展 ~工芸~

垣秋草蒔絵歌書箱(江戸時代)

蒔絵と和歌は切っても切れない関係であり、この歌書箱は古今和歌集の冊子を収めるためのもの。
古今集は聖典のように大切に読み継がれてきたのだと改めて実感。




重文・塩山蒔絵硯箱(室町時代)

絵柄と文字を組み合わせて一つのテーマを暗示する「葦手絵」(草仮名を葦の葉になぞらえたことによる)の手法を用いた硯箱。
やや分りにくいが、画中の二か所の岩に「君」と「賀」の文字が隠されていて、古今和歌集の賀歌「しおのやま さしでの磯に住む千鳥 君が御代をば八千代とぞなく」をモチーフとしている。
日本人好みの心にくい演出だ。



国宝・尾形光琳《八橋蒔絵螺鈿硯箱》

『伊勢物語』の第九段、三河国八橋の情景を描いたもので、『八ツ橋図屏風』と同じ意匠でつくられた。
さらに同じデザインの櫛もあったらいいなと思ったりもする。



伝本阿弥光悦《忍蒔絵硯箱》

その名の通り、古今集の有名な和歌「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」をモチーフにした硯箱。
忍草の模様で表面を埋め尽くし、蓋表中央に「たれゆえに」の文字を配している。



尾形光琳・乾山《銹絵観鴎図角皿》
                    
宋の詩人、黄山谷がカモメを眺める様子を光琳が表に描き、乾山(尾形深省)が裏に銘文を記した兄弟合作の角皿。                
           



伊賀焼・伽藍石香合(江戸時代)

廃寺の伽藍石をしのばせる侘びた風情の伊賀焼の香合。
松平不昧公が愛蔵した。


  

国宝・伯耆安綱(名物童子切安綱)平安時代
              
              
平安時代を代表する刀工、伯耆安綱の作。
「名物童子切安綱」というのは、酒呑童子伝説と結びついたためだと考えられている。
天下五剣の一つとして足利将軍家から徳川将軍家、越前松平家、津山松平家へと伝来した。


以上、常設展は名品の「気」のシャワーを浴びて、パワーチャージできるエリアだった。

                                  

東博表慶館

表慶館内部。ここは建物自体が芸術品。
                    


明治42年築の外観


アールヌーヴォー様式を取り入れた優美な階段
 

ここはアジアンギャラリーになっていて、信じられないくらいガラガラ。
ほとんど二人占め状態だった。
(というか、全体的に東京から人がいなくなっているように思うのは、気のせいだろうか……。)


ガネーシャ(カンボジア・アンコール時代)がお出迎え

    
ナーガ上の仏坐像(カンボジア、アンコール・トム)

釈迦が悟りを開いた後、瞑想をしていると、嵐が起きた。そこへ「ムチャリンダ」という竜王があらわれて、自分の体を釈迦に巻きつけて、釈迦を七日間、風雨から守り続けたという伝説を図像化したもの。
ベルトルッチの映画『リトル・ブッダ』にもそんな場面があったような記憶が……。



交脚菩薩像(クシャン朝、パキスタン)

彫りの深い、端正な顔立ちの典型的なガンダーラ仏像。
未来仏である弥勒菩薩は、キリストやミトラ神とも同一視される興味深い存在だ。



如来坐像(パキスタン、クシャン朝)
                                   
ギリシア彫刻の影響を受けたガンダーラ仏だが、ギリシア的な筋肉質で肉感的な表現は削ぎ落とされ、禁欲的で深い精神性をたたえた造形となっている。




加彩女子俑(前漢)
                                 
細身の女性像。
唐時代には豊満な女性が美人とされたけれど、漢代以前は西施や貂蝉など、細身で撫で肩の女性が美人だった。
現在の美意識と似ていたのかもしれない。
            
                

2011年8月15日月曜日

玉堂美術館

                            
 もつれつつ戀する蝶のくるほしく山峡ふかく落ちてゆくなり    偶庵


レトロな御嶽駅 電車は1時間に数本

御盆休みの週末、人ごみを避けて青梅の玉堂美術館へ。
駅を降りると(御嶽駅に降り立ったのは初めて!)、そこは東京とは思えない山紫水明の地でした。


川遊びに興じる人たち

カヌー(カヤック?)も楽しそう~


ボートで渓流下り


美術館対岸の料理旅館「河鹿園」
 

蝉時雨のなか橋を渡って少し行くと、川沿いに趣のある美術館が見えてきました。



戦時中に奥多摩に疎開していた川合玉堂は、都内の自宅が戦災により焼失したことから、御嶽に定住し、新居を「偶庵」と名づけたそうです。

「偶庵」とは、「偶々(たまたま)、多摩(たま)に住んだ」ことに由来するもので、一種のおやじギャグ(?)ですね。それが、歌人・俳人であった玉堂の雅号にもなっています。


この美術館は、玉堂没後4年の昭和36年に、彼の人柄を偲ぶ地元の有志と、全国の愛好家たちの寄付によって建てられました。
寄贈された土地に建つ美術館の建物は、数寄屋建築家の吉田五十六が無償で設計したとのこと。
玉堂の芸術と人柄を愛する人たちの思いと熱意がこめられた美術館なのです。



行幸啓記念碑


最初に入った展示室には、《夏雨五位鷺》や《夏川》、《江畔夏夕》など、収蔵品の中でも夏らしい作品が紹介されていました。

玉堂は水の表現が、特に渓流や滝や波などの動きのある水の表現が実に巧みな画家です。
「みずからまず水になって描けば水になり……」と画家自身が語っています。


今回、夢ねこが特に気に入ったのが、《瀑布》という作品。

これは縦2メートル以上もあろうかという大作で、その画をひときわ高く掛けてあるため、ほんものの滝を見上げるように滝の画を見上げつつ、流れ落ちる水しぶきとともに神々しい「気」のようなものを全身に浴びているような気分になります。

玉堂は、雪などを描くときに「何も塗らない」ことで雪の白さを表現しているのですが、この《瀑布》でも、水が滝壷に落ちるあたりの白さは、おそらく色を塗らずに紙の白さを生かしているように思われました。

夢ねこは学生時代、大学近くの箕面の滝をひとりでぼうっと見上げたものですが(アルファ波のおかげでしょうかヒーリング効果満点なのです)、玉堂の《瀑布》も、いつまでも心を空っぽにして見つめていたい滝でした。



《瀑布》のほかにも、玉堂が16歳の時に描いた写生帖が公開されていました。

駒鳥や銭葵、野イチゴなどが実に美しく緻密に描かれていて、写生というレベルではなく、これだけで動植物図譜としてひとつの独立した作品になりうる見事な画帖です。
若干16歳でこれを描いたとは、まさに天才、恐るべし。


第1展示室を出ると、枯山水の庭園が見渡せます。

庭園の向こうからは清流のせせらぎが


美術館の渡り廊下

第2展示室では、おもに偶庵たる玉堂の俳画や歌画を味わうことができます。

たとえば、《わが庵》。
青竹の絵の画賛に「わが庵は藪蚊を多み馬のごと足を蹴りつつ顔洗ふなり」という歌が詠まれていて、玉堂のお茶目な人柄が偲ばれます。

ほかには、《ひよどりの声》では、松葉の絵に「むかつをの雲をいまかくわが雲のあひかふあたりひよどりの声」の画賛、《打水》では、撫子と夏草の絵に「今朝もまた暑くなる陽のさしいりて 打水の球 葉ごとにひかる」など、自然とともにある日々の暮らしが衒いなく詠まれています。

自由闊達で飄々とした作風であるがゆえに、画と書と詩(短歌・俳句)が三位一体となった詩書画三絶の境地を垣間見た気がしました。
(真の三絶とは、かように技巧を感じさせない、さりげないものかもしれない。そう思うと、写真の中の玉堂の姿が仙人のように見えてきた。)



復元された玉堂の画室


玉堂は絵の具をすべて自分で溶いたそうです。

玉堂は生前、『多摩の草履』や『山笑集』、『若宮抄』といった句集・歌集を出していますが、それらは現在、美術年鑑社から刊行された『多摩の草履』にまとめられ、未定稿だった絶詠も収められています。


 寝返りをしても障りの無き迄に歌の手帖に構図す我れは     偶庵


昭和32年6月上旬、享年84歳でした。