2012年4月30日月曜日

東北の春

GWの前半(4月29日)、桜の見ごろを迎えた東北は、花見客でにぎわっていた。

多賀城政庁跡の桜

ほんとうに自然のパワーは凄い。
喜びも、悲しみも、いろんなものを与えてくれる。


東北鎮護・奥州一宮「塩竈神社」


満開の桜




宝物を運ぶ神主さん


桜に平安装束が映えます



神苑




大島桜や佐野桜、兼六園菊桜、染井吉野など、色とりどりの桜


撫でると無病息災の御利益があるとされる「なで牛」
インドのシヴァ神信仰に由来するのかもしれない
愛嬌のある顔は、みんなに撫でられて黒光りしています



見事な枝垂れ桜


国の天然記念物「塩竈桜」
手毬状につく八重桜です


芭蕉が塩竈神社を参拝した折に見て、感動したとされる「文治灯籠」
しかし実際には、本物の文治灯籠は戦時中に供出されてしまったので、
この錆びた灯籠は戦後につくられたレプリカとのこと




塩竈神社社殿
ブルーノ・タウトは好みではないかもしれないが、
芭蕉は『奥の細道』のなかで荘厳な社殿を褒め称えた



1809年に、伊達周宗が蝦夷地警護凱旋ののち
奉寶として寄進した灯籠
江戸後期の高度な鋳物技術がうかがえる



塩竈神社内の「志波彦神社」



志波彦神社の前からは塩竈港と島々が見降ろせます


昨日の荒涼とした被災地とは、対照的な風景だった。

津波に襲われた場所は荒漠とした原野のようだが、影響を受けなかった場所は、傾きかけた古い家屋や店舗がまばらにあるだけで、ごく普通の街並みのように見える。

ほんの数日滞在しただけでは、被災地の現状など分かるはずもないが、現実をぐっと静かに受け止め、立ちあがり、前に進む人々の姿を見ることができた。

「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」
アランのこの言葉を実践しているかのような素敵な笑顔を、宮城で何度も目にした。


家族や親族が一緒だった(親戚のお見舞いと母の古希のお祝いを兼ねていた)ので、直接被災した場所をあまり見ることができなかったが、着々と復興に向かいつつある東北のパワーを実感した旅だった。





























































被災地へ

GWの初日、東京在住のわたしの家族は、大阪在住の親族たち(総勢8人)とともに、宮城県南部に住む伯父(父の兄)宅を訪れた。
(大阪の親族とは、仙台で合流。)


何もかも、すべて津波に流されて、原野のような荒涼とした風景が広がる
塩害のため草木も生えない

去年の震災では、父方の親戚が被災した。
遠い親戚のなかには家屋とともに津波に流されて亡くなった人もいたそうだが、わたしの伯父・叔父や従兄弟たちは奇跡的に無事で、家屋への被害も少なかった。


しかし、震災から1年以上たった今、伯父や叔父が大病を患ったり体調を崩したりしたため、お見舞いを兼ねて被災地に向かったのだった。


海沿いを走る常磐線の「坂元駅」の線路とホーム



坂元駅の駅舎は流され、線路は途切れていた。
線路が続いていた先に立つ煙突から、煙が出ているのが見えるだろうか。
瓦礫が焼却されているのだ。



かつて神社があった場所。赤く塗られたコンクリートは鳥居の残骸。




かつて松林や民家、イチゴ栽培のビニールハウスがあった場所。


点在する瓦礫の山。


新設された焼却炉で処理される瓦礫。



瓦礫の広域処理の是非について、わたしのなかでは未だに答えが見つからない。

瓦礫を広域で処理することによって、放射能汚染が全国に拡散するリスクは当然ある。
また、広域処理には巨額の利権が絡んでいるという(瓦礫処理に積極的な自治体首長や政治家が自分の身内が経営する産廃業者に便宜を図っているなどの)問題もある。


ただ、被災地の多くの人たちが、いまも苦しみ続けていることも事実だ。


瓦礫の山をこの目で見ても、答えが出ないことに変わりはないが、
瓦礫の広域処理をするというならば、広域処理の基準とされる1キロあたり8000ベクレルという基準はやはり高すぎると思う(IAEAの国際基準では、1キロあたり100ベクレル以上のものは低レベル放射性廃棄物処理場で厳格に管理するよう定められている)。
また、データの透明性を極限まで高める必要もあるだろう。


いずれにしろ、復興を遅らせている最大の原因のひとつは、言うまでもなく原発事故である。

これさえなければ、多くの自治体が瓦礫を喜んで受け入れただろうし、わたしのように水や食材や空気の放射能汚染を気にしている人も、復興支援のために、被災地の農水産物を積極的に購入したはずだ。

こうした悲劇を二度と繰り返さないためにも、メリットに比べてデメリットがあまりにも多すぎる原発依存から脱却しなければならない。

もちろん、それには多少の痛みが伴う。
電気によって実現した便利な生活を、今よりも若干不便な数十年前の生活に戻すことも必要なのかもしれない。


















































2012年4月22日日曜日

ボストン美術館展〈プロローグ コレクションのはじまり〉

「ボストン美術館 日本美術の至宝」展は、東京国立博物館140周年記念展だけに、主役級の名品ばかりが一堂にそろった超豪華キャストの展覧会だった。



第Ⅰ部〈プロローグ コレクションのはじまり〉
文明開化後、西洋化が推奨され、日本文化が軽視されていたなか、日本の美術を高く評価し、没落した大名家や廃寺から散逸していた名品を蒐集したフェノロサー、ビゲロー、岡倉天心の功績をたたえるコーナー。


ここでは、日本画革新の運動を興し、新しい画家を育てるためにフェノロサが主宰した「鑑画会」の成果ともいえる、狩野芳崖や橋本雅邦の作品が展示されていた。



4 《騎龍弁天》 橋本雅邦 1886年頃   (数字は作品番号)
 
  鑑画会の2等賞に入賞した作品。
  逆巻く大海原の波間から勢いよく天に昇る龍。その背中には、佳人のように優雅な弁財天が坐っている。幕末までの日本画には見られなかった鮮やかな配色が印象的だった。

東京国立近代美術館に、原田直次郎の油彩画《騎龍観音》が所蔵されているが、あの大画面の絵は、雅邦のこの《騎龍弁天》から着想を得たものだろうか。

革新的な日本画が、革新的な洋画にインスピレーションを与え、相乗効果で斬新な作品が生まれていく。明治という時代の面白さがイメージできる作品だった。



参考:《騎龍観音》原田直次郎、1890年


 フェノロサは、その講演記録『美術真説』(1882年)のなかで、芸術の本質は「妙想(イデア)」(理念の表現)にあると述べている。

 彼は絵画創作上の大きな要素として、線と明暗(濃淡)と色彩の3つをあげ、それに絵の主題を加えた4つがそれぞれ調和をとり、統一をはかることが必要であり、さらにそこに「妙想」を表現する「意匠」と、それを実際の画面にする技の力が必要であると説いている。
 これらの条件がそろってはじめて「妙想」ある絵画が成立するという。

そして、妙想という観点から、フェノロサは日本画と西洋画(油絵)を以下のように比較考察する。

(1)日本画と油絵を比較した時に、油絵ははるかに写生的で実物を模写した写真のようなものであり、写生を重視して「妙想」を失っている。すべての絵には写実を超えた理念がなければならないが、いまの油絵にはそれが欠けているものが多い。日本画のなかでも、円山派や北斎は写生に走って画道の本領から遠ざかった。

(2)ものを描く以上は陰を描くのが当然のようだが、あまりに科学的に絵をとらえようとすると「妙想」を失う恐れがある。その点、日本画はわずかの墨だけで「妙想」を表せる、としている。

(3)日本画は実物を写生的に描かず、線で美しさを強調して、妙想を表す長所がある。

(4)色彩表現の豊かさに頼っているために、油絵は妙想を忘れる傾向がある。

(5)簡潔な方が画面全体を引き締めることは言うまでもない。

このように、フェノロサの考察によると、日本画の欠点とされた陰翳の欠如や線描きを主体とする描写法も、「妙想」を重視する観点からすれば、逆に長所として生かせることになる。
    

フェノロサはたんに自分の好みだけで日本画に傾倒していたのではなく、西洋画との違いを論理的に分析したうえで、日本の美術を評価したことが以上の記述からわかる。

現に、彼の日本美術の収集法はけっして恣意的なものではなかった。彼は日本美術史をシステマティックに整理し、美術品を系統立てて買い取っていったので、今回の展示も順番に鑑賞していくことで、日本の美術史を概観できるようになっていた。


            参考文献:堀田謹吾『名品流転 ボストン美術館の「日本」』  





















ボストン美術館展〈仏のかたち 神のすがた〉

東京国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅱ部は〈仏のかたち 神のすがた〉。
ここは海を渡った仏画や仏像、春日曼荼羅などを紹介するコーナーだった。


5 《法華堂根本曼荼羅図》 8世紀、奈良時代
東大寺法華堂に伝来。日本のみならず東洋美術史的にも重要な作品で、日本に残っていれば国宝に指定されでいただろう名品中の名品。法華経(妙法蓮華経如来寿量品第16 自我偈)の如来の説法の場面が描かれていた。

唐代の山水画に倣った背景には、奥行き感があり、剥落してわかりにくいが、宝の樹に華が咲く誇るという「宝樹多華果」の様子が描写され、仏の住まう天界の様子が再現されていた。
描かれた当初は鮮やかな彩色で、夢のような幻想的な世界が映し出されていたはずだ。



8  《普賢菩薩延命菩薩像》 12世紀中頃、平安時代
5頭の白像の上に、3つの顔を持つ白像(それぞれの白像が6本の牙を持つ)が立ち、その三面の白像に普賢菩薩がまたがっている仏画。普賢菩薩の周りには四天王が取り巻いている。

菩薩の女性のように白い柔肌には艶っぽい隈取りが施され、瓔珞や法具には金銀の錐金が多用され、光背には透かし彫りのような繊細な表現で描かれた、いかにも平安末期らしい耽美的で装飾的な作品だった。



11 《一字金輪像》 13世紀初め、鎌倉時代
「一字金輪」とは、如来の最高の智慧を象徴化したもので、「如来よりも上」とされる密教で最高位の仏のこと。
気品のある理知的で端正な顔立ち、切れ長の目、無駄な装飾を排したシンプルな画面構成など、鎌倉時代の仏画の特徴を備えた優美な画で、仏の顔には当時の人々の理想の美が反映されているように思われた。



23 《弥勒菩薩立像》 快慶、1189年、鎌倉時代
奈良の興福寺に伝来したもの。修復時に見つかった胎内教の記述から、快慶による現存最古の作例とされている。
凛として立つ美しい仏像の姿には一分の隙もなく、完全無欠な造形だ。秀麗で知的な顔立ちでありながら、手足は貴婦人のように優美でほっそりとしている。水晶の玉眼を嵌め込んだ瞳は、見る者がどの位置に立っても、相手を見つめ、その内面を見通すかのように、鋭く澄んでいる。

これほど完璧な仏像が、快慶最初期の作品とは……天才ってこういうことなんですね。
ミケランジェロやベルニーニに何百年も先行して、これほど凄い彫刻家が日本で活躍していたのだとあらためて実感。
この仏像の美しさは図版ではぜったいに伝わってこないので、ぜひ実物をご覧ください!







ボストン美術館展《吉備大臣入唐絵巻》

「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅲ部は〈海を渡った二大絵巻〉。
《吉備大臣入唐絵巻》と、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されていた。


26 《吉備大臣入唐絵巻》 12世紀後半、平安時代
 《吉備大臣入唐絵巻》は、平安時代末期に後白河法皇の発意で制作されたとされている。
  この絵巻は、遣唐使として中国に渡った吉備大臣(吉備真備)が、唐の皇帝によって楼に幽閉され、数々の難題を課せられるが、唐土で客死した阿倍仲麻呂(幽鬼となって登場)の助けを借りながら、難題を次々と解決し、ついには「文選」、「囲碁」「野馬台詩」などを携えて、日本に帰国するまでの冒険譚をビジュアル化したもの。

 制作された当初は蓮華王院(現・三十三間堂)の宝蔵に収められていたが、その後さまざまな人の手に渡り、幕末には茶器蒐集家として有名な小浜の酒井家に伝わるが、大正期に名宝の売却がおこなわれた際に、大阪の古美術商が落札。その後、長い間買い手がつかなかったのを、東洋美術の買い付けのために来日したボストン美術館の富田幸次郎(天心の弟子)が購入した結果、《吉備大臣入唐絵巻》は海外に流出したとされている。


《吉備入唐絵巻》の構図の最大の特徴は、「吉備大臣が幽閉された楼門」、「唐の宮廷の門」、「唐の宮殿」という同一構図が反復する単純さであり、それゆえに、構図の複雑な《伴大納言絵巻》や《平治物語絵巻》に比べると、芸術的価値が低いとされてきた。


《吉備大臣入唐絵巻》のこのような評価に対して、日本史家の黒田日出男氏は著書『吉備大臣入唐絵巻の謎』(小学館)のなかで、同絵巻における錯簡(3箇所)の存在を指摘することによって反論している。

●黒田日出男氏が指摘した3箇所の錯簡

(1)第2後半には、帝王に命じられた宝志和尚が難読の「野馬台詩」を書いている場面が錯簡として入っている。

(2)第1段後半には、吉備大臣が日月を封じたために、唐朝の宮廷が大騒ぎとなっている場面の錯簡。

(3)第5段後半には、日月が封じられて唐土が真っ暗になった原因を占うべく、老博士らが宮殿に参内する場面が錯簡となっていた。


このように黒田氏は、錯簡の存在を指摘したうえで、「従来、現存『吉備大臣入唐絵巻』は、冒頭の詞書と後半部分だけの欠失が指摘されてきたのだが、そうではなかった。三つの段に錯簡があり、失われたと思われていた絵巻後半の三つの段が、錯簡状態で残っていたのである」としている。


黒田氏の指摘に従って、《吉備大臣入唐絵巻》を並べ替えてみると、絵巻の構図の冗漫さは解消され、ストーリーの流れもすっきりするので、同絵巻の醍醐味を存分に味わいたい方は、展覧会に足を運ぶ前に、『吉備大臣入唐絵巻の謎』を一読することをお勧めします。



さらに、この絵巻にもっと関心がある方にお勧めなのが、倉西裕子『吉備大臣入唐絵巻 知られざる古代中世一千年史』(勉誠出版)。

詳しい内容は割愛するが、倉西氏によると、吉備大臣が幽閉された到来楼と弥生時代の高層建築物(出雲大社など)、吉備大臣と卑弥呼、唐の宮殿と清涼殿(平安朝の内裏)とが、それぞれダブルイメージされて描かれているという(いささか牽強付会に感じるが)。

倉西氏の論考で興味深かったのが、唐の宮殿と清涼殿のダブルイメージを、この絵巻のプロデューサーである後鳥羽法皇が絵師に意図的に描かせたのではないか、という指摘だ。

同氏はこのように述べている。
唐王朝の宮殿と清涼殿のダブルイメージにも、院政と天皇親政という権力の二重構造の問題を抱えていた平安末期の政治状況を映し出す後白河法皇の意図があったようである。後白河法皇のの院御所が到来楼であるならば、対する天皇の清涼殿は唐王朝の宮殿となろう。絵巻は、院政側、すなわち到来楼側の後白河法皇の視点から描かれているのである。」


また、倉西氏は、到来楼に閉じ込められた吉備大臣に対して、後鳥羽法王が強い関心を寄せたのは、法王自身がその生涯で7度以上も幽閉されたからではないかと述べている。

そして後鳥羽法皇の第1回目の拉致・幽閉となったのが、平治の乱である。

今回の展覧会では、《吉備大臣入唐絵巻》に続いて、後鳥羽法皇拉致の場面を劇的に描いた、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されており、ことさら感慨深いものがあった。



以上、ぐだぐだと書き並べましたが、予備知識がなくても、絵を見ているだけでも十分に楽しめる、劇画チックで表情豊かな、ユーモラスな絵巻物でした。
とくに、吉備大臣と鬼が空中飛行する場面や、囲碁の勝負で吉備大臣が碁石を飲みこんじゃう騒動の場面は必見!
鳥獣戯画と並んで、日本アニメの元祖なんじゃないかな。




ボストン美術館展《平治物語絵巻》

27 《平治物語絵巻》「三条殿焼討巻」 13世紀後半、鎌倉時代

平安末期(1159年)に起きた平治の乱の100年後に制作された《平治物語絵巻》は、本来は15巻にもおよぶ大作だったが、現在は「三条殿焼討巻」(ボストン美術館所蔵)、「六波羅行幸巻」(東京国立博物館所蔵)、「信西巻」(静嘉堂文庫美術館蔵)の3巻と、色紙状の数葉のみが現存している。

「三条殿焼討巻」は、平治の乱のきっかけとなった、藤原信頼と源義朝による後白河上皇の拉致と御所三条殿の焼討の場面を描いたもの。

焼討の炎を見て駆けつける公卿たちや、逃げ惑う人々、衝突する牛車、牛車に轢かれる人など、都の争乱の混乱ぶりがじつにドラマティックに描かれている。

生き物のように勢いよく燃え上がる炎ともくもくと立ち上る黒煙の描写は圧巻!
きっとこの絵巻の絵師は、どこかで火災が起きるたびに一目散に駆けつけて、スケッチしたのではないかなあ。都を焼き尽くす炎が、最小限の描線で巧みに描かれていた。

三条殿のなかでは、凌辱されたと思われる、胸をさらした女房たちの無残な屍が折り重なり、抵抗する人々の首や腹から鮮血がほとばしり、塀の外では信西の生首が薙刀にくくりつけられてさらされるなど、地獄絵図のような凄惨を極めた場面がリアルに描かれている。

平安末期に制作された《吉備大臣入唐絵巻》には、どこかほのぼのとした、ユーモラスでのどかな雰囲気が漂っていたのに対し、鎌倉後期に描かれた《平治物語絵巻》は、厳格で透徹したリアリズムと、見る者の猟奇的嗜好を刺激する、容赦ない残虐性で彩られている。

全体を俯瞰する角度から描かれているのだが、まるで一大スペクタクル映画の戦闘シーンのように、迫力に満ちていた。



〈番外編〉東京国立博物館・国宝室(本館2階)

《平治物語絵巻》「六波羅行幸巻」  13世紀後半、鎌倉時代

東博の常設展では、国宝《平治物語絵巻》「六波羅行幸巻」が、展示されていた。
「六波羅行幸巻」は、内裏に幽閉された二条天皇が脱出を図り、清盛の六波羅邸に逃げ込む場面を描いたもの。この巻は、江戸時代には大名茶人・松平不昧公が所蔵していた。


第1段:天皇と中宮が乗る牛車の御簾を上げて中をあらためる武士たち

第2段:美福門院の六波羅御幸を護衛する人々



第3段:六波羅邸の武者揃い


第4段:天皇の脱出を知ってあわてる信頼



人々の表情やポーズや動きが場面に即して的確に描かれているのがこの絵巻の魅力だ。
躍動感に満ちた壮大な「三条殿焼討巻」とあわせて見ると、楽しさが倍増する。


この「六波羅行幸巻」で注目したいのが、中年の「牛飼い童」。

遠目で見れば牛飼い「童」だが、クローズアップしてみると、むさくるしい中年男


橋本治の『ひらがな日本美術史2』には面白いことが書いてある。


平安時代の”牛飼い童”は、長い髪を後ろで一つにまとめ、水干を着て裸足で牛を引く。これはあきらかに”少年の風俗”なのだが、しかしだからといって、すべての”牛飼い童”が少年だったわけじゃない。
(中略)
”牛飼い童”は職業で、彼がその職業についている限り、彼は”童”を卒業することが出来ない。だから、牛飼いの童の中には、こういう陰鬱でごっつい中年男もいた。

 院政の時代とは、摂政関白という、たった一人の男に牛耳られていた優雅な抑圧の中から複数の男たちが誕生する、猥雑な時代なのだ。保元の乱も平治の乱も源平の合戦も、こういう複数の男たちの自己主張から生まれる。(中略)
 そこには、さまざまな男たちがいる。品のいい若武者も、ごっつい牛飼いの童も、昔ながらの貴族も。野蛮で生々しくて雑駁で優雅な《平治物語絵巻》は、こうした院政時代の内実を十分に消化吸収した後の鎌倉時代になって生まれた、新しい絵巻物なのである。
――橋本治『ひらがな日本美術史2』



橋本治のいう「野蛮で生々しくて雑駁で優雅な《平治物語絵巻》」は、この春、東博の特別展・常設展、そして静嘉堂文庫美術館で見ることができます。

現存する3巻を1度に鑑賞できるまたとない機会なので、時間を見つけて、静嘉堂文庫美術館「東洋絵画の精華」展にも行ってみようと思います。






ボストン美術館展〈華ひらく近世絵画〉〈奇才 曾我蕭白〉

東京国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅵ部は〈華ひらく近世絵画〉。
ここでは、安土桃山時代から江戸時代までの近世絵画が展示されており、天才絵師たちによる華麗な競演となっていて、非常に見ごたえがあった。


44 《龍虎図屏風》 長谷川等伯、1606年、江戸時代
第3部の展示室に入って真っ先に目に飛び込んでくるのが、この大画面の龍虎図。
龍虎の形などは、大徳寺所蔵の牧谿の《龍虎図》から取り入れたとされている。

画面の左右に描かれた対峙する龍と虎。
龍のまわりにヒゲや波の曲線、虎の足元には角張ってゴツゴツした断崖を描くことで、「陰」と「陽」の力の拮抗と「氣」のバランスが見事に表現されている。

款記には、「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」とある。東伯晩年の傑作。



48 《十雪図屏風》 狩野山雪、17世紀前半、江戸時代
詩文集『皇元風雅』の「十雪題詠」を典拠とするこの画は、雪にまつわる10の話をもとにしたもの。
作者は、狩野山楽の婿養子で、京狩野三代目の山雪。

岩や楼閣や庵は、矩形や三角を組み合わせた幾何学的な構成で描かれているが、ふわりと積もった雪のぬくもりや軽やかな感触、雲が立ち込める空、湿り気を帯びた空気などは有機的に表現されている。
江戸狩野には見られない、山雪独特の個性的な造形意識が楽しめる絵だった。


49 《四季花鳥図屏風》 狩野永納、17世紀後半、江戸時代
京狩野三代目の永納による金地濃彩の花鳥画。豪華ななかにも、桃山時代や江戸狩野とは異なる繊細さや、琳派のような装飾性が見られた。京らしい華やかで典雅な作品。



最後のコーナーは〈奇才 曾我蕭白〉の独壇場。
そこには蕭白ワールド全開の、奇天烈な空間が広がっていた。

61 《龐居士・霊照女図屏風(見立久米千人)》 曾我蕭白、1759年、江戸時代
 表面的には、娘の霊照女と一緒に、竹籠を売って暮らした唐代の隠者、龐居士(ほうこじ)を描いたものだが(現にこの絵では仙人らしき人物が竹籠をつくっている)、川で洗濯する女のふくらはぎを見て欲情し、神通力を失って落下した久米仙人の話(「今昔物語」)も重ね合わされている。

 好色そうな顔つきの隠者(じつは久米仙人)や、煩雑ともいえるほど緻密に描かれた岩や植物には、濃墨と金泥が多用され、蕭白特有の粘着質な画面に仕上がっている。

蕭白のほかの作品と同様に、この画にも無数の斑点が、まるで小虫が画面にたかっているように執拗に描かれており、それが不快なざわめきとノイズを起こして、不安を掻きたてる。

蕭白は決して、美しく心地よい画を描こうとはしていない。
人の心を波立たせ、神経を逆撫でし、感覚を刺激することを意図したように思える。

蕭白の作品を12点も蒐集したフェノロサも、彼についてこのように述べている。
曾我秀文と蛇足の子孫である蕭白という絵師さえ、古い中国様式の人物・山水をおろかにも蕪村に似た狂的な画風で制作している」。

 つまり、フェノロサ自身は蕭白の絵が好みではなかったが、作品の芸術的価値については高く評価していたのだろう。

 わたし自身もこの展覧会で見るまでは、蕭白については異才とは思うが、どちらかというと不快感を催すので、あまり好きにはなれなかった。しかし、本展覧会の目玉のひとつである《龍雲図》を見て、そうした印象は覆された。



62 《龍雲図》 曾我蕭白、1763年、江戸時代

これはもう、ひと言でいうと「凄かった!」です。
蕭白、恐れ入りました!
          
この画はビゲローが収集したものだが、長いあいだ贋作扱いされて、ボストン美術館の倉庫の隅に眠っていたのを、同美術館の学芸員が偶然発見し、以来、蕭白の虜になったというエピソードがある。

《龍雲図》は、もとは寺院の連続構図の襖絵だったものだが、両側の八面分だけ剥がされたものらしく、画面中央の胴体部分が欠けている。
両側をつなぎあわせたものだが、見ていてそれほど違和感はないばかりか、その分、龍の顔がクローズアップされて圧倒的なパワーで迫ってくる。

実際に、蕭白は一気呵成に描いたらしく、余白部分には濃墨が飛び散り、龍の爪や鱗も迷いのない一筆で、鋭く、勢いよく描かれている。

金属質な鱗に覆われた龍の尾は、キングギドラを思わせる不気味な光沢を放ち、白波は触手のようにくねくねとうねりながら、何かを求めて彷徨っている。
グロテスクだけれど、どこか剽軽な龍の表情は蕭白ならでは。
(勝手な想像だが)本展覧会を訪れる人で、この画にノックアウトされない人はいないのではないだろうか。



*****

この展覧会全体を通していえるのは、作品の保存状態がきわめて良好なことだ。
ボストン美術館の作品の管理・保存技術が優れているのもあるだろうが、やはり気候の影響も大きいのではないだろうか。
最近ではたいていの美術館で空調・除湿設備が完備されているが、湿潤温暖な日本で、傷みやすく繊細な日本画や日本美術を保護・保存することの難しさをあらためて思い知らされた。

作品の劣化を遅らせた(アンチエイジングになった)という点では、日本美術が海外に流出したことは、ある意味では幸いだったのかもしれない。









遅咲きの桜

4月も半ばを過ぎた週末、上野公園に行ったら、1本だけ満開の桜が。


「大器晩成」サクラ

春を告げる早咲きの桜も胸躍るけれど、葉桜のなか、ひときわ華やかに咲く遅咲きの桜って、
なんともいえない風情があっていいものです。

東京国立博物館の常設展では、この時期ならではの春らしい作品が展示されていました。

《渓山春色》 松林桂月、1935年

江戸時代に独特の発展を遂げた日本南画の近代化に尽力した松林桂月。
金箔を裏地に施した、精緻で豪華な作品でした。
松林桂月は、この展示で初めて知ったけれど、装飾性と写実性がバランスよくミックスされた素敵な絵でした。

《吉野山図》 狩野主信、江戸時代



《桜山吹図屏風》 伝俵谷宗達、17世紀

桃山時代らしい碧緑の丘に、それぞれ白い胡粉と金箔で描かれた山桜と山吹が咲き誇る風雅な下絵に、本阿弥光悦が和歌を書写した色紙が貼られています。

宗達・光悦という稀代の名コンビが生み出したこの絵は、あまり知られてないけれど、隠れた名品でした。

ただ、惜しむらくは、東博は特別展のライティングは最高なのですが、常設展の照明は特別展ほどにはこだわって施されていないようなので、この絵もかなり見えにくく、どんよりとした印象でした。
(ここに貼りつけた画像の明るさはデジカメで修正しています。)

特別展を見た後で常設展を見ると、照明の大切さをあらためて実感します。



《桜図》 広瀬花陰 19世紀、江戸時代


広瀬花陰も今回初めて知りましたが、さりげないシンプルな構図のなかに、時を経た幹から噴き出すように咲く桜の花の生命力と華やかさが表現されていて、心惹かれる絵でした。
花陰のほかの作品も見てみたい気がします。


















2012年4月16日月曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想

ふさふさと渦を巻いた髪は、彼の姿に荘重な趣を添えていた。顔は非常に華奢で、ほとんど女のような美しさに充ちていて、声は堂々とした偉大な体にも似ず、細くて妙に甲高く、非常に気持ちのいいものであったが、男らしいところはなかった。(中略)その美しい手になみなみならぬ力が潜んでいることを、ジョヴァンニは悟ったけれど、指などもすらりと長くほっそりとしていて、まるで女の手のように優しかった。
                                                     
         ―メレシコーフスキイ、米川正夫訳 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 神々の復活』


花散りはてし4月の第3日曜日、Bunkamuraで開催されている『レオナルド・ダ・ヴィンチ』展へ、愛しい《ほつれ髪の女》に会いにいった。

本展覧会は4部構成になっていて、第Ⅰ部は〈レオナルド・ダ・ヴィンチ時代の女性像〉。
このコーナーでは、レオナルドから影響を受けたと思われる同時代の画家による女性像が展示されていた。


1506年頃にラファエロとその工房が手掛けたとされる《カーネーションの聖母》は、一般にレオナルドの真筆といわれている《ブノワの聖母子》(一部加筆)の構図を借用している。

《カーネーションの聖母》ラファエロとその工房、1506年頃

《ブノワの聖母子》レオナルド・ダ・ヴィンチ、1478~80年

比べてみると、衣襞の表現や肉付きのヴォリュームと陰影、質感豊かな流れる髪の表現などに大きな違いがあることが分かる。

ラファエロとその工房が写実性をやや犠牲にして、理想化された聖母子像を描いたのに対し、レオナルドは聖母子が醸すと期待される厳かさよりも、その厳密な人間観察を反映した肉体表現・表情描写を作品に効果的に生かすことに徹している。
そのため、見る人によっては、レオナルドの《ブノワの聖母子》が美しくない(もっといえばグロテスクな)聖母子像に映るかもしれない。

このように、レオナルドに影響を受けた画家たちの作品と比較することで、彼が追求した「美の理想」像が見えてくる。


実際に、レオナルドは「美は善ではない」と言っている。

彼にとっては理想化された美しさよりも、解剖学に適った科学的な正確さのほうが重要であり、それが彼にとっての「美の理想」だったのではないだろうか。




このコーナーで白眉だったのが、ボッカッチョ・ボッカッチーノの《ロマの少女》(1504-05年)。

青紫色のターバンを巻いた金髪の少女が、何かを訴えかけるような目で、こちらを見つめている。

真紅のショールからのぞく白いサテンのドレスには、宝石をちりばめた黄金の縁取りが施され、首元と額には、東洋風の精緻な宝飾品があしらわれている。
深く輝くエメラルドやルビーに劣らないほどみずみずしい透明感をたたえた少女の瞳と、なめらかで潤い豊かな肌の質感。

まるで魂が宿り、脈動しているような不思議な絵だ。
絵の中に閉じ込められたジプシーの少女が、時のない異次元からじっと此岸を見つめているような、そんな絵だった。

ボッカチーノという画家をこの展覧会で初めて知ったが、もっと評価されてもいいような気がする。



第Ⅱ部は、レオナルドや彼の弟子、あるいはレオナルドから影響を受けた画家たちの作品を紹介する〈レオナルド・ダ・ヴィンチとレオナルド派〉。

このコーナーには、今回の目玉である《ほつれ髪の女》と《岩窟の聖母》が展示されていた(後者については、別項で詳述します)。

《ほつれ髪の女》は、板の地に筆と鉛白で描かれたデッサンで、レオナルド50代半ばの作品。

《ほつれ髪の女》1506-08年
伏し目がちに描かれた物静かで優美な女性の表情は愁いと慈愛を含み、どこか瞑想的で、秋篠寺の伎芸天を彷彿とさせる。

髪は結わずに、ナチュラルに乱れたままで、華美な衣服や宝飾品もまったく描かれていない。
この女性が生まれながらにもつ彫刻のような端正な顔立ちと、内面からにじみ出る深い精神性とが、類まれな美しさを生みだしている。

レオナルドは言う、「人間のさまざまな美のうち、道ゆく人をも引きとめるのは、たくさんの装飾品ではなく、美しい容貌だということを君は知らないのであろうか?」と。

つまり、(無駄な抵抗ともいえる)人工的ないっさいの装飾を排して、神から与えられた美そのものを、不世出の天才が描いた「美の結晶」が、この《ほつれ髪の女》なのだ。

この展覧会の名誉監修者カルロ・ペドレッティは、「レオナルドの卓越した美の中でも、《ほつれ髪の女》は最高のものであり、《モナ・リザ》や《最後の晩餐》をも凌駕する」と言っているが、わたしもレオナルドの作品のなかでは、この絵がいちばん好きかな……。

デッサンが最高作品と評されるのは、素描の名手で「未完の画家」と称されたレオナルドならではだろう。
未完であるがゆえに甘美な余韻が漂い、見る者の想像力をかきたてる。

(この絵のモデルは、レオナルドのアニマの化身なのか、彼の母親なのか、それとも彼のアニマと
母親と理想の女性像をブレンドした「幻の女」なのか……?)

余白の美、未完の美を体現した珠玉の作品だった!



第Ⅲ部〈「モナ・リザ」イメージの広がり〉は、モナ・リザの模写やモナ・リザもどきの絵画など、モナ・リザの「バッタもん」のオンパレードのコーナー。

こうした二番煎じの作品群を見ることの効用は、あまりにも偏在し、見慣れてしまった結果、何の感興も催さない陳腐な絵画に堕してしまった「真正モナ・リザ」の素晴らしさを再認識できることかもしれません。



第Ⅳ部は〈「裸のモナ・リザ」、「レダと白鳥」〉というテーマで、レオナルドの弟子たちが描いた「裸のモナ・リザ」がずらりと展示されていた。

「裸のモナ・リザ」はレオナルドの最後の創意だったという研究者もいるらしいが、それはどうかなあ……。
あの神秘的な「モナ・リザ」が裸にされた絵画の群れを見て、なんだか悲しい気持ちになった。
こういうことをレオナルドがほんとうに願ったのだろうか。

このコーナーでいちばん興味深かったのが、フォンテーヌブロー派の《浴室のふたりの女性》だ。

深紅のカーテンを背景にした浴槽のなかに、二人の裸の女性が入っている。
ひとりは下半身を湯船につけて見事な胸をさらし、もうひとり(身体つきは青年のようにがっしりしている)は浴槽に後ろ向きに腰かけて、身体をひねって振り向いている。
ひとりの女性が、もうひとりの女性に指輪を渡すようなしぐさをしているが、指輪そのものは描かれていない。

この《浴室のふたりの女性》は、ルーブル美術館蔵の《ガブリエル・デストレとその妹》との類似性から推察すると、おそらくアンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレとその妹を描いたものだろう。
(ガブリエル・デストレは、アンリ4世の子を妊娠中に毒殺されたとされる、宮廷の権謀術数の犠牲になった悲劇のヒロインでもある。)

いかにもマニエリスム的な倒錯した官能美にあふれていて、これが「裸のモナ・リザ」の系譜なのか……と思うと、いとおかしく、感慨もひとしおだったことであるよ。

《岩窟の聖母》 あれは天使じゃない!?

Bunkamuraザ・ミュージアムの「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展で、《岩窟の聖母》を見ていたたとき、あるものを発見して背筋がぞっとした。

周知の通り、《岩窟の聖母》には2つのヴァージョンがある。
最初のヴァージョン(ルーブル美術館蔵)は、ほぼ全面的にレオナルドの創意に基づいて制作されたのに対し、描き直された第2ヴァージョン(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)は、共同制作者であるデ・プレディス兄弟主導で描かれたと考えられている。


《岩窟の聖母》(ルーブル美術館蔵)


《岩窟の聖母》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)

ルーブル美術館蔵の《岩窟の聖母》と、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵のそれとの違いは、イエスと洗礼者ヨハネとの区別がつきやすいよう、ヨハネにそのアトリビュートである十字架状の杖が加えられたことや、ヨハネを指し示す天使のポーズが削除されたこと、聖母子とヨハネに光輪がつけられたこと、天使の背部に天使らしい羽根が生えたことなどが挙げられる。

しかし最大の違いは、ルーブル・ヴァージョンに見られる、精妙な空気遠近法による背景や、人物像の深い陰影、悠久の時を表現した峨々たる巌の表現、鍾乳洞のように水気を帯びた洞穴の描写、そして天使の姿の奇形性が、後者にはない点だ。

ロンドン・ヴァージョンでは、岩の表現は平板で、遠景は奥行きに欠け、空気にも湿り気はなく、人物の肌の質感は無機的で、テカテカした光沢に包まれている。


さて、今回来日したのは、個人蔵であるためにこれまでほとんど人目に触れることのなかった《岩窟の聖母》の第3ヴァージョンだ。専門家のなかにはこれを、レオナルド・ダ・ヴィンチとその弟子たちに帰属すると考える人もいる。

今回来日した《岩窟の聖母》、個人蔵

個人蔵の《岩窟の聖母》は構図の上では、ほぼルーブル・ヴァージョンと同じ(マリアの光輪は後の加筆)だが、肌の質感や陰影、髪型や水辺の植物の種類、遠景の表現には違いが見られる。

わたしはこの絵の前に4~5回くらい立ち、トータルで30分くらいは見ただろうか。
肉眼やミュージアムスコープでさまざまな角度から眺めたが、見れば見るほど不思議な絵だった。
とくに、天使が奇妙なのだ。

『ベニスに死す』のタッジオのように神秘的な美をもつ天使だが、
そもそも、これは天使なのだろうか。
見る者に謎かけをするような、冷たく、静かな微笑を浮かべてこちらを見つめている。
そのまなざしに耐えきれず、思わず眼をそらして、視線を下方へ向けると、そこには異様なものが描かれていた。

むさくるしい大男のものとしか思えない”足”である。


「天使」の下に、不気味な”爪先”が見えるのがわかるだろうか?

天使の下の、ありえない位置に、唐突に現われたグロテスクな”爪先”。
これは、いったい……?

考えてみると、洗礼者ヨハネを指し示す右手も、天使の顔の大きさと比べると、異様にデカい。
まるで天使が二人羽織りをしていて、別の誰かの手が天使の横から出ているかのようだ。

それに、赤いマントで隠されているが、天使の背中の盛り上がりはいったいなんだろう?

さらに、天使の首の下から翼らしきものが生えているが、天使の羽根にしては、いびつな形をしているし、そこには、松皮のようなゴツゴツした気味の悪いイボもついている。

異常な足の位置と、手の大きさ、背中の奇形的な盛り上がり、鷲のような翼……。
これはどう見ても、天使ではなく、スフィンクスかキマイラの一種だろう。


《岩窟の聖母》の第1ヴァージョン(ルーブル・ヴァージョン)が注文主から受け取りを拒否された一因が、この反キリスト的な「天使」(じつはキマイラ)の存在だったのではないだろうか。

その証拠に、最終的に納品された第2ヴァージョン(ロンドン・ヴァージョン)では、天使の造形からは鵺のような奇怪な要素はいっさい排除され、いかにも御使いらしい、愛らしく美しい姿形に描き換えられて、絵画全体が「無毒化」されている。

レオナルドがなぜ、このようなキマイラ的な存在を描いたのかは、まったくの謎だが、この得体の知れない存在のもつ妖しさこそが、レオナルドが描きたかったものではないだろうか。


永遠に解けない呪いのような強力な魔力を放つ聖母子像を描ける者が、レオナルドのほかにいたとは到底思えない。
模写や贋作では、時を超えて人を魅了する、このような呪力は持ちえないのだから。

2012年4月8日日曜日

満開の桜の下で

四月の第二日曜日、東京は例年より少し遅れて花見日和でした。


申し合わせたように一斉に開花した桜、桜、桜。

あいにく生理痛(月経困難症)のため、遠出せずに近所の公園でちょこっとお花見。





そういえば、去年の今頃は東京都知事選でした。
原発推進派の石原ではなく、他の候補者が当選していたら……と思うと無念。





来年の今頃は、原発が一基も稼働していない、完璧に脱原発した日本であってほしい。



満開の桜の下で願いを込めて……。






                   *