2011年7月10日日曜日

パウル・クレー ~ おわらないアトリエ

Art in the Making 1883-1940

金曜日の午後、東京国立近代美術館で開催されているパウル・クレー展に
行ってきた。

バウハウス・ヴァイマールのアトリエ(1926)

今回の企画展は、「制作過程そのものが作品」と述べたクレーの技法や制作プロセスを追体験するための趣向が随所に凝らされていた。

『自画像』のあとの『アトリエの中の作品たち』のコーナーでは、クレーが生涯に構えた5つの街のアトリエの写真を展示し、その写真の中の作品がアトリエごとに紹介されていた。

解説によると、クレーがコダック製カメラで撮影したアトリエの光景は、一見無造作で自然に見えるが、じつは画家自身によって巧みに配置され、演出されているそうだ。

クレーの作品群が映っているアトリエの写真そのものも、彼の作品だったということになるのだろうか。



ここに掲載した写真以外にも、いかにもバウハウス時代のドイツを思わせる室内空間がノスタルジックな雰囲気を醸していた。



破壊された村(1920)油彩、アスファルト下地、厚紙

ミュンヘンのアトリエの写真の中の絵のひとつ(ポストカードの絵なので画像が粗い)。
このころは油彩で具象画的な作品を描いていたようだ。
どちらかといえば表現主義的な作風だ。

尖塔がずれた教会の前に、死者を悼むように燭台と火の消えた蝋燭が掲げられている。
ゲルマン的な瞑想の森は戦火に見舞われ、焼け残った樹木がかろうじて形をとどめているばかり。
人影なもはやなく、廃墟と化した村に、血のように赤く沈鬱な太陽が昇っている。


わたしがこの作品にひかれたのは、いうまでもなく、震災・原発事故を想起させたからだ。

この絵が描かれた数年前に第一次世界大戦が勃発し、クレーもドイツ軍に入隊。青騎士展にともに出品した友人のマッケやマルクは戦死した。

破壊されて荒廃した祖国や失った友への思いがこの絵に込められているのかもしれない。



  
淑女の私室でのひとこま(1922)油彩転写、水彩、紙、厚紙

1914年のマッケとのチェニジア旅行と1917年の従軍経験を経て、クレーは「油彩転写」という独自の技法を開発した。
油彩技法とは、黒い油絵を一面に塗った紙の上に、白紙の紙を置き、さらにその上から、あらかじめ描いていた素描を重ねて、素描の描線を針でなぞり、白紙の紙に黒い描線を転写したあと、水絵の具で彩色する方法。

むかーし、保育園か幼稚園のころに、クレヨンで描線を引いた上から水彩絵の具で着色した絵を描いたり、クレヨンでカラフルに色づけした画用紙を黒いクレヨンで塗りつぶし、その上から釘でひっかいて絵を描いたりしたことがあるけれど、なんとなく、あの「ひっかき絵」に似ている気がした。
(あの手のお絵かきは結構好きだった。)

   
この《淑女の私室でのひとこま》も、油彩転写を使った作品。

針でなぞったおかげで繊細な描写が可能になり、さらに水彩画で彩色したことで、油彩には出せないガラスのような透明感を表現することができた。

そして何よりも(これはクレーが思考錯誤の末に見出したものだと思うが)、転写の際に偶発的についてしまう黒い油彩の「しみ」が、この絵に独特の味わいを添えている。


実験的な技法と、緻密に計算された構図と透けるような色彩。
それらに、水彩画のにじみや、水が沁み込んだことによる紙のゆがみ、そして転写による黒いしみといった偶然性を加えることが、クレーの狙いだったのだろう。

そしてさらにこの絵を面白くしているのが、そのタイトルだ。
何も知らされずにこの絵を見て、「淑女の私室でのひとこま」というタイトルを想起する人はまずいないだろう。
タイトルを目にして、あらためてこの絵を見ると、さまざまな要素がどこか官能的で、エロティックなかたちとして立ちあらわれてくる。
        
描線にも、色彩にも、構図にも、素材にも、タイトルにも、そして絵の汚れにさえも、巧妙な仕掛けが施されているのが、クレーの絵なのだ。



花ひらいて(1934)油彩、カンヴァス

クレーは油彩転写のほかにも、さまざまな試みをおこなっている。

そのひとつが、この《花ひらいて》という作品。
この絵は、《花ひらく木》という1925年に描いた自分の絵をもとにして描かれた(《花ひらく木》を90度左に回転させてから二倍に拡大して、色彩を明るくして描いている)。

《花ひらいて》の裏に、《無題》という絵が描かれている点も興味深いが、わたしが心ひかれたのは、《花ひらく木》と《花ひらいて》の素材の違いである。

《花ひらく木》は厚紙に描かれているのに対し、《花ひらいて》はカンヴァス地に描かれているのだが、素材の違いで、色の質感が微妙に異なるのが面白い。

特に紙に描かれた《花ひらく木》のほうは、経年により厚紙に凸凹ができているため、それがさらに色彩のグラデーションが生み出す湾曲感を高めていて、非常に立体的な作品に見えるのだ。

平面(二次元)的な絵画に立体感(三次元的感覚)を与え、さらに「経年」という時間的な変化をも加えて、作品を(画家自身の死後も)継続的に創作していく。
これこそが、クレーの制作プロセスであると同時に作品でもあることを気づかせてくれる試みだった。





獣たちが出会う(1938)油彩、糊絵の具、厚紙、合板

1930年代半ば、ファシズムが台頭する中で、クレーは「頽廃芸術家」というレッテルを貼られ、家宅捜査や美術アカデミー教授職の無期限解雇(バウハウスとの契約はみずから解消していた)などの弾圧を受ける。

1915年の《闊歩する人物》という作品の裏には、新ミュンヘン分離派の印刷物が貼られている。
それによると、「我々は若者を堕落させるもの、汚物を撒き散らすもの、つまりはドイツ精神の裏切り者とみなされた。我々は意味もなく横暴なだけのこうした避難を跳ね除け、罵詈雑言を振り払う所存である。我々は活動を続けていく」とあり、当時のクレーの決意がうかがえる。

だが、ナチスによる弾圧がさらに強くなるなか、1935年には皮膚硬化症の最初の兆候があらわれ、1937年にはドイツ国内の公的コレクションから102点のクレー作品が押収される。

そうした逆境のなかで描かれたのが、この《獣たちが出会う》だ。 

クレーは晩年その描線を、油彩転写に見られる針金のような繊細なものから、書の墨線のような太くたくましい描線へと変化させ、色彩もアフリカ的でエスニックな色調に変えて、象形文字のような記号を数多く登場させている。

中期の《蛾の踊り》や《幻想的なフローラ》に見られる、ステンドグラスのような透明感のある美しい色彩とはまったく異質の、太陽の光を跳ね返すような強烈な色彩。
この大きな作風の変化の背後にはいったい何があったのだろう。

亡命の地での闘病生活における彼の思いや心境はうかがい知ることはできない。
しかし苦しく不自由な環境でも、否、苦しく不自由な環境だからこそ、そのなかで創造力をさらに自由に駆使して、さまざまな実験を試みることができる、そのことをクレーの作品は教えてくれる。

彼の作品はどれもみな永遠に解けない謎だけれど、彼の絵がはるか海を越えて今の日本に来てくれた、そのことに意味があるような気がする。

数々の展覧会がキャンセルになる中でこの企画が実現し、見る人の心をときめかせたという事実に、クレーからのメッセージが込められていると勝手に思うことにした。

いずれにしろ、見るたびに違った見方ができるのが、クレー作品の魅力である。
できれば会期中にもう一度訪れることができますようにと念じつつ、会場を後にした。