2010年9月5日日曜日

カポディモンテ美術館展最終章:グアリーノの聖アガタ

 鮮血がにじんだ胸もとを抑えながら、こちらに挑発的なまなざしを向ける黒髪の美しい女。きりりと吊り上がった意志の強そうな眉と、凛とした口もと。乳房切断という深刻な傷を負ったばかりの女性のものとは思えない、神々しいまでに毅然とした態度と官能的な表情。いくつもの矛盾が交錯するこの絵は、見る者に強烈な印象を与える。

            フランチェスコ・グアリーノ『聖アガタ』   

 彼女はシチリアのアガタ、キリスト教の聖女だ。
 うら若き乙女アガタは、シチリア島を統治していた好色なローマ総督から言い寄られるが、自分は主イエスの花嫁であるからと、総督の申し出をきっぱりと断った。怒った総督は彼女を売春宿に入れて、彼女を堕落させようとする。アガタは客をとることを頑として拒んだため、投獄され、鉄鋏で乳房を切り取られ、さらに拷問を加えられた末に命を落とす。

 キリスト教の言い伝えでは、聖ペテロが彼女の前に現れて、胸の傷をいやしたとされている。だが実際は、ローマ時代、女性の処刑に先立って、強制売春などの形で精神的苦痛を味わわせたあと、乳房を切り取ることがよく行われていたというから、まったく陰惨で報われない話である。
 聖アガタのほかにも、聖アグネスや聖バルバラなど、多くの聖女たちが乳房を切断された。男たちのサディスティックな欲望を満たすために、このような拷問が慣習化していたことは疑うべくもない。

 聖アガタの絵は、乳房を載せたお盆を持つ着衣の聖女の姿で描かれることが多いが、なかには、セバスティアーノ・デル・ビオンボの『聖アガタの殉教』のように、2人の拷問者が左右から両乳首を鉗子のような拷問具で挟むといった、宗教画という名目で描かれたSM的な主題の画もある。

           セバスティアーノ・デル・ビオンボ『聖アガタの殉教』 

 そうしたアガタ像のなかにあって、今回展示されているグアリーノの『聖アガタ』は一度見たら忘れられない、独特の魅力を放っている。

 Sant’Agata Irpinaという、聖アガタの名にちなんだ地名を持つイタリアの小さな集落で生まれたフランチェスコ・グアリーノは、早い時期からこの聖女に特別な関心を抱いていたらしく、初期の作品のなかにも、『聖アガタの殉教』というタイトルで描かれたものが2つある。ひとつは、真っ赤に焼かれた石炭の上を転がされている図(聖アガタは実際にこのような拷問を受けたとされている)、もうひとつは、乳房を切り取られた図だ。この2つの絵は、地元の聖アガタ教区教会からの依頼で創作された。

 そして晩年(晩年と言っても、グアリーノは40代前半で亡くなっている)に描かれたのが、今回展示されている『聖アガタ』である。最初この絵は、グアリーノの師であるマッシモ・スタンツィオーネの作品と考えられていたが、近年の研究によってグアリーノの最高傑作であることが判明し、彼の再評価のきっかけとなった。
(スタンツィオーネの『聖アガタの殉教』も今回展示されていて、ちょっとした「師弟対決」となっている。)

 グアリーノが長年追い求めてきた聖アガタ像が心のなかで熟成し、彼以外の何者にも創造しえない形となってあらわれたのが、この『聖アガタ』といえる。

 超然とした表情をたたえながらも、どこか艶めかしく煽情的なグアリーノのアガタ。会場を飾る数多の名画のなかでも、彼女の射るようなまなざしは、とりわけわたしを惹きつけてやまなかった。