2010年6月18日金曜日
紫陽花の季節の和敬清寂
梅雨の晴れ間の夜、今年初めてのお茶のお稽古。
なんと、半年ぶりです。
仕事にかまけてずいぶんと足が遠のいてしまいました。
お茶のお稽古といっても、近くの公民館の茶道サークルだから、和気あいあいと、気楽な感じでやっています。
今日のお花は紫陽花。
会員の方がお庭に咲いていたお花を持参されたもの。
日が暮れてもまだまだ暑かったので、紺地に紫陽花柄の浴衣で参加。
もともと初心者だったわたしは、久々なので、まっさらな状態に逆戻りです。
今日は、薄茶の運び手前(平手前)をさせていただきました。
今日の「拝見」。
ーーお棗のお形は? 「利休型中棗でございます」
ーーお塗りは? 「宗哲でございます」
ーーお茶杓のお作は? 何か御銘はございますか?
「お作は利休居士。銘は『ゆがみ』でございます」
と、こんな感じで、
今日は『細川家の至宝』展で目にした茶杓『ゆがみ』で茶を点ててみました(妄想全快)。
超一流の名品を扱っているつもりでお手前をしたほうが、ひとつひとつの所作が丁寧になるし、お道具にも「気」を込めて接することができる気がします。
今日はお菓子は朝顔の練りきり。
真ん中には朝露を模した透明な寒天があしらわれています。
ここの茶道サークルでは、いわゆるアラフォーのわたしと、もうひとりの男性の方が最年少で、あとはみなさん五十代~七十代と、人生の大先輩ばかり。
しかもみなさん、エイジレスで可愛らしくてパワフルで、本当に素敵なお姉さまたちなのです。
彼女たちは人との付き合い方も、「君子の交わりは淡きこと水のごとし」という故事のごとく、深からず浅からず、適度な距離を保ちながら互いに接していらっしゃいます。
彼女たちの姿を見ていると、お茶以外にも、人として大切なことを学べる気がします。
* * * *
わたしがお茶を習ってみようと思ったきっかけが、森下典子さんの『日々是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』でした。
著者は、お辞儀の仕方などに「タダ者じゃない」雰囲気を漂わせたお茶の先生に出会い、茶道の世界に入っていきます。
茶道教室となっている先生の自宅の庭には茶花が咲き乱れ、お稽古には毎回季節に合った素敵なお菓子が出されます。
そのお花の可憐さや和菓子の美しさ、美味しさの描写が実に見事だし、何よりも、就職の失敗や結婚の破談、父の死など、著者の人生の様々な局面とお茶の教えとを重ね合わせていく、その構成がとにかく素晴らしい。
特に、婚約者に裏切られて婚約を破棄した著者が立ち直るまでの描写には胸を打つものがあります。
それから後半の雨の日のお茶のお稽古の様子を描いた場面は圧巻。
雨垂れの中、「自己」や「思考」などは消え去り、すべてが鮮明に、感覚そのものになっていく。
これこそが「悟り」の境地では!、と思わせるようなすごい場面です。
お茶関係の随筆は多いですが、お茶の世界の楽しさ、面白さが凝縮された本書は、間違いなく珠玉のエッセイと言えるでしょう。 お茶に興味がある方におススメです。
2010年6月13日日曜日
オルセー美術館展:モロー『オルフェウス』
わたしは手に触れるものも、目に見えるものも信じない。
ただ目に見えないもの、感じるものだけを信じている。
――ギュスターヴ・モロー
吟遊詩人オルフェウスは毒蛇にかまれて亡くなった最愛の妻エウリディケを探しに、黄泉の国まで降りていく。だが、けっきょく妻を連れ戻すことはできず、禁欲的なオルフェウス教の創始者でもある彼は、女性をことごとく避けるようになる。それがバッカスの巫女たちの反感を買い(彼女たちが信仰する快楽主義的なディオニソス教はオルフェウス教と対立していたこともあり)、オルフェウスは無残にも八つ裂きにされて竪琴とともに川に投げ込まれる。
オルフェウスの首は、川のせせらぎが奏でる竪琴の調べに合わせて、詩を口ずさみながら流れていった。
ギリシャ神話に登場するオルフェウスの物語をもとに、モローは、「トラキアの岸辺に流れ着いたオルフェウスの首をひとりの若い娘が拾い上げ、敬虔な面持ちで竪琴に載せて運んでいく」という後日談を創作し、その場面を絵に描いた。
当時モローは40歳。サロンに出品されたこの『オルフェウス』は、すぐに国家買い上げとなり、第2回パリ万博にも出展された。
その数年前に描かれた『オイディプスとスフィンクス』とは画風がよく似ており、イタリア絵画を思わせる遠景の岩山や川の表現など、モローがイタリア留学中に吸収してきたさまざまな影響が見てとれる。
首を拾い上げた娘(おそらくニンフだろう)が身につけた衣装や装身具は、後に描かれるサロメやガラテアに見られる「闇の中にぶちまけた宝石箱のように燦然と輝いた、宝石とモザイクと螺鈿の冷たい人工的なきらめき」(澁澤龍彦)ほど華美ではないが、それでも梅鉢紋のようなドレスの紋様や、菩薩像の瓔珞を彷彿させる精緻な腕輪や胸飾りは、娘の慈悲深く哀悼するような表情と相まって、東洋的でエキゾチックな雰囲気を醸している。
モローが描く女性像は、男か女かわからないような、胸もくびれもあまりない両性具有的な骨太の姿で描かれることが少なくない。
だが、この『オルフェウス』の中のニンフは、モローにしては珍しく、体つきのほっそりとした優美で可憐な姿で描かれている。
いっぽう、瞑目したオルフェウスの古典的で端正な横顔は、ルーブル美術館に収蔵されているミケランジェロの『瀕死の奴隷』像をモデルにしたものとされている。
(オルセー美術館名誉学芸員のジュヌヴィエーヴ・ラカンブル氏によると、『瀕死の奴隷』の頭部の石膏模型がモローの自宅にあったそうである。)
オルフェウスを主題にした絵画はそれまでも存在したが、オルフェウスの「首」をクローズアップし、ヨハネの首を抱くヘロデヤのようなポーズで描いたのは、モローが初めてだった。
その後、彼は憑かれたようにサロメとヨハネの首(斬首直前のヨハネの姿から斬首された直後、斬首後のヨハネの首とサロメなど)を描き、『さかしま』の中でデゼッサントを耽美と頽廃の世界へ導き、ワイルドとビアズリーに霊感を吹き込み、数々の文人・詩人にインスピレーションを与えていった。
この『オルフェウス』は、モロー自身にとっても着想の源となった。
オルフェウスの首からサロメ&ヨハネの首へと発展させていっただけでなく、彼は後年、『ケンタウルスに運ばれる死せる詩人』や『旅する詩人』、『詩人の嘆き』、『サッフォー』など、詩人を主題とした作品を好んで描いているし、『エウリディケの墓の上のオルフェウス』や『人類の生』などの作品の中でオルフェウスを繰り返し登場させている。
モローにとってオルフェウスは、「夢」と「歌」と「涙」の象徴だった。
彼の最晩年の作品のひとつに『死せる竪琴』という水彩画の習作が遺されている。
モローにとって竪琴は、詩人によって生み出された神秘なるもの「古代の神話」のシンボルであり、彼はその竪琴の死にゆく姿を描くことで「古代の神話がキリスト教の出現によって水没していく」さまを描きだそうとしていたらしい(この水彩画を描いた翌年にモローは胃がんで亡くなっている)。
オルフェウスとその竪琴、そしてそれらが象徴するものは、その生涯にわたってモローの創作のテーマだったようだ。
今回展示されている『オルフェウス』の絵をさらに見ていこう。
オルフェウスの首を載せた竪琴を抱くニンフの背後には、低い常緑樹が描かれ、黄色い小ぶりの果実がたわわにみのっている。
これは檸檬の木だろうか。一見美味しそうに見えるが、実は皮は苦く、実は酸っぱい檸檬の実は、ヴァニタスの一種かもしれない。モローは「過酷な人生の現実と、甘美な詩の夢」という言葉を残しており、この黄色い実の描写からも彼の思想の一端がうかがえる。
画面右前方に描かれた2匹の亀は、おそらくヘルメスの竪琴に由来すると推察される。
ギリシャ神話では、ヘルメスが亀の甲羅に葦を差して、この世で最初の竪琴をつくったと伝えられている。
ヘルメスが奏でる竪琴の音色を聞いたアポロンは、それをいたく気に入り、ヘルメスから竪琴を譲ってもらった。この竪琴をアポロンから授かったのが、音楽の天才オルフェウスだった。オルフェウスの死後、竪琴は、彼の亡骸とともに川に流され、それをアポロンが拾って天に投げ、琴座にしたという。
モローが描いた『オルフェウス』の中の2匹の亀は、たがいの尾に食いつかんばかりに、首をそれぞれ逆の方向に向けており、その頭と尾をなぞっていくと円環が現れる。竪琴を暗示する亀たちをウロボロスの環に見立てることで、モローは「死と再生」をもほのめかしたのかもしれない。
参考文献
『ギュスターヴ・モロー』(ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル著、隠岐由紀子監修、創元社)
『ギュスターヴ・モロー』(藤田尊潮訳編、八坂書房)
美術館のカフェ
ミュージアムショップで見つけたアフリカの民芸品。
どこかほのぼのとしている。
美術館周辺の紫陽花の生け垣。
2010年6月12日土曜日
オルセー美術館展:アンリ・ルソー
第9章 アンリ・ルソー
ルソーの作品2点が展示されたコーナー。
ルソーの絵のなかで、『カーニバルの夕べ』の次に好きなジャングル・シリーズ。今回はパンフレットやチケットにも掲載されている『蛇使いの女』が来日した。
巨大な熱帯植物や多肉植物は、ルソーがパリの植物園で観た植物や図鑑を参考にして描いたもの。水気をたっぷり含んだその瑞々しい質感が絵から伝わってくるようだ。
静かな湖上に浮かぶ満月が、鬱蒼と生い茂るジャングルの木々と肉感的な蛇使いの女を背後から明るく照らし、インドネシアの影絵芝居のような幻想的な世界を創りあげている。
鎌首をもたげた大蛇たちが笛の音に吸い寄せられ、フラミンゴやインコらしき鳥たちもその妙なる調べにうっとりと聞き入り、草木までもが枝葉を楽しげに揺らしている。
ジャングルいっぱいに陶然とした幸福感が満ちているようで、こちらも夢の中にいるような気分になれる素敵な絵だった(ルソーは特に月夜の絵がいいね)。
このコーナーのもうひとつの展示作品『戦争』は、ルソーが税関を退職した直後に描いた大作である。「(戦争)それは至るところに、恐怖と絶望と涙と廃墟を残して通り過ぎる」とルソーは述べている。
画面下半分は死屍累々たる惨状が占め、画面中央では、戦争の擬人像とされる炎と剣を手にした少女(?)が、たてがみのような髪を振り乱しながら馬らしき獣にまたがって、折り重なる死体の上を飛ぶように駆けていく。
前景のズボンをはいた男性の死体はルソー自身、右の方で鳥に啄ばまれている死体はルソーの後妻となるジョゼフィーヌの前夫を描いたとされる(自虐的なブラックユーモアか?)。
戦争の擬人像は原始的な姿で、怖いというか、不気味な感じがするが、死体はどれも生身の人間というよりは、張り子の人形のようだし、背景の色も明るい空色なので、戦争の悲惨さや残虐さがダイレクトには伝わってこない。それが却ってシュールでカリカチュア的な雰囲気を醸し出しているという、不思議な絵だった。
ルソーについてはこんなエピソードがある。
コレクターで批評家のウーデによって、その最晩年にようやく個展が企画された。だが、招待状に会場の記載がなかったため、個展には誰も来なかったという。
ルソー、ゴッホ、ゴーギャン。生前は世に認められることのなかった画家たちの絵が、いま世界中で高い評価を受けている。
生きているあいだに成功をつかみ、その死後に忘れ去られる画家もいれば、ルソーのような画家たちもいる。はたしてどちらが幸せなのか。
それはおそらく、どちらが幸せということではなく、絵を描くという行為そのものに幸せを感じた者が、いちばん幸せなのかもしれない。
ルソーの作品2点が展示されたコーナー。
ルソーの絵のなかで、『カーニバルの夕べ』の次に好きなジャングル・シリーズ。今回はパンフレットやチケットにも掲載されている『蛇使いの女』が来日した。
巨大な熱帯植物や多肉植物は、ルソーがパリの植物園で観た植物や図鑑を参考にして描いたもの。水気をたっぷり含んだその瑞々しい質感が絵から伝わってくるようだ。
静かな湖上に浮かぶ満月が、鬱蒼と生い茂るジャングルの木々と肉感的な蛇使いの女を背後から明るく照らし、インドネシアの影絵芝居のような幻想的な世界を創りあげている。
鎌首をもたげた大蛇たちが笛の音に吸い寄せられ、フラミンゴやインコらしき鳥たちもその妙なる調べにうっとりと聞き入り、草木までもが枝葉を楽しげに揺らしている。
ジャングルいっぱいに陶然とした幸福感が満ちているようで、こちらも夢の中にいるような気分になれる素敵な絵だった(ルソーは特に月夜の絵がいいね)。
このコーナーのもうひとつの展示作品『戦争』は、ルソーが税関を退職した直後に描いた大作である。「(戦争)それは至るところに、恐怖と絶望と涙と廃墟を残して通り過ぎる」とルソーは述べている。
画面下半分は死屍累々たる惨状が占め、画面中央では、戦争の擬人像とされる炎と剣を手にした少女(?)が、たてがみのような髪を振り乱しながら馬らしき獣にまたがって、折り重なる死体の上を飛ぶように駆けていく。
前景のズボンをはいた男性の死体はルソー自身、右の方で鳥に啄ばまれている死体はルソーの後妻となるジョゼフィーヌの前夫を描いたとされる(自虐的なブラックユーモアか?)。
戦争の擬人像は原始的な姿で、怖いというか、不気味な感じがするが、死体はどれも生身の人間というよりは、張り子の人形のようだし、背景の色も明るい空色なので、戦争の悲惨さや残虐さがダイレクトには伝わってこない。それが却ってシュールでカリカチュア的な雰囲気を醸し出しているという、不思議な絵だった。
ルソーについてはこんなエピソードがある。
コレクターで批評家のウーデによって、その最晩年にようやく個展が企画された。だが、招待状に会場の記載がなかったため、個展には誰も来なかったという。
ルソー、ゴッホ、ゴーギャン。生前は世に認められることのなかった画家たちの絵が、いま世界中で高い評価を受けている。
生きているあいだに成功をつかみ、その死後に忘れ去られる画家もいれば、ルソーのような画家たちもいる。はたしてどちらが幸せなのか。
それはおそらく、どちらが幸せということではなく、絵を描くという行為そのものに幸せを感じた者が、いちばん幸せなのかもしれない。
オルセー美術館展:内面への眼差し
第8章 内面への眼差し
ナビ派と象徴主義のコーナー。いよいよ、世紀末絵画の世界に入っていく。
偏愛するモローの『オルフェウス』については別項で詳述する。
ここではモローのほかに、彼の教え子でもあるルドンの『目を閉じて』や、フレスコ画を彷彿させるシャヴァンヌの大作『貧しき漁夫』、陰影法も遠近法も使わずわずかな色調だけで描かれたヴュイヤールの『ベッドにて』、そしてうれしいことに、クノップフやハンマースホイまで展示されていた。
ボナールの『ベッドでまどろむ女』は、日に何度も身体を洗う神経質なマルト(もちろんドニの妻とは別人)がモデル。
情事のあとが生々しい、乱れたベッドの上で、いまだに痙攣しているかのように足をひん曲げる女の姿。薄い下着だろうか、それとも他の「何か」だろうか、白く半透明のものが股間から足先にかけて描かれている。
夢も理想も神秘性も何もない、あまりにも卑近で、日常的で、ある意味、現実的な絵だ。「見ればわかる」というが、芸術とポルノグラフィーとを分かつものとは、本当のところ、何だろう?
オルセー美術館展:ナビ派
第7章 ナビ派
おもに浮世絵とゴーギャンから影響を受けたとされる、平面的かつ装飾的なナビ派の絵画のコーナー。
ここでいちばん目を引いたのは、モローやルソーと並んでこの展覧会のお目当てだったドニの『ミューズたち』。
落ち葉模様の絨毯を敷き詰めたかに見える地面。ギリシャ神殿の円柱を思わせる太い樹木。装飾的な木の葉に覆われた森の中で、ミューズたちは瞑想に耽るかのように伏し目がちに佇んでいる。髪を結いあげた端正なその横顔は、どこか無機的で、瑪瑙に刻まれたカメオのよう。
アポロンの侍女で諸芸の女神でもある9人のミューズたちは、それぞれ「美声」、「賛歌」、「天上」、「悲劇」、「喜劇」、「叙事詩」、「音楽」、「多くの歌声」、「舞踏」を司るとされているが、ここではいずれもドニの妻マルトがそのモデルとなっている。
同じような顔、同じような物腰を持つ女性がステンドグラスのようなクロワゾニスムの手法で描かれることで、どこか異界めいた神秘的な雰囲気と独特のリズムが創出される。
この章には他にも、画面を分断する木立の影の部分と陽のあたる光の部分の強烈なコントラストが印象的なヴァロットンの『ボール』や、絵を見るだけではその良さがさっぱり分からず、由緒を聞いて初めて「へぇー、ほう」となる、セリュジェの『護符(タリスマン)』(注1)が飾られていた。
注1)ポン=タヴェンでゴーギャンから直接指導を受けて、セリュジュはこの絵をまるで抽象画のように描いた。そして、絵を仕上げたその日のうちにセリュジュはパリに戻り、ボナールやドニといった画家たちにこの絵を見せ、かくしてナビ派が結成されたという。だから、この絵はナビ派の「護符(タリスマン)」のようなものだという意味でこのタイトルがつけられた。
オルセー美術館展:ポン=タヴェン派
第6章 ポン=タヴェン派
ブルゴーニュ半島のポン=タヴェン村に集まり、ゴーギャンの影響を受けた画家たち。(従来は「綜合主義(の画家)」と呼ばれていたが、いつからポン=タヴェン派になったのだろう? 長生きはしてみるものだ。)
ここでの白眉は、何といってもベルナールの『愛の森のマドレーヌ』だろう。
これはベルナールの3歳年下の妹マドレーヌ(当時17歳)を描いた作品。
ベルナール曰く「真の聖者の魂を持った」マドレーヌは、ポン=タヴェン派の画家たちから崇拝されたという。
彼女の清らかさを象徴するかのように澄んだ湖をたたえた森の地面に横たわるマドレーヌ。どこか遠くを見るようなまなざしと、超然とした表情。青みがかったドレスで首元から足首までを覆われたその無垢な身体は、黒く太い輪郭線で描かれ、犯しがたい神聖な雰囲気を醸している。
マドレーヌのこの姿勢は、シャルトル大聖堂にある『横たわる聖母』の彫刻を参照したものであり、ベルナールはマドレーヌを聖母になぞらえたのではないかいう説もある。
この絵の完成から7年後、結核に冒されたマドレーヌは24歳の若さで亡くなったという。
文学的な香りがする美しく静謐な絵だった。
この絵と前後して描かれたベルナールの作品に『水浴の女たちと赤い雌牛』という絵がある。
これは、先ほどの『愛の森』とは打って変わって「肉体の氾濫」とでもいうような、逞しく野性味のある絵だ。
画面左上に赤みがかった雌牛が描かれ、それと呼応するかのように、雌牛のごとく丸々と肥え太った10人の裸女たちが描かれている(アングルの『トルコ風呂』のパロディか?)。
女たちのどっしりとした重量感、お色気ゼロのしぶとさ、ふてぶてしさ。裸女というよりも、牛たちがハダカの女の着ぐるみを着て、草原でゴロゴロしているかのような風情なのだ。
『愛の森』で描かれた聖女とは対照的だが、これも女性の本質をついた作品といえなくもない。両者の対比が面白かった。
オルセー美術館展:ゴッホとゴーギャン
第5章 ゴッホとゴーギャン
ゴッホとゴーギャンの強烈な個性と自我が横溢するコーナー。
『アルルの部屋』:ゆがんだ空間の中で、壁の絵もベッドも机もイスもそれぞれが烈しく自己主張し、こちらに迫ってくるように感じられて息苦しくなる。遠い昔、こんなアトラクションが遊園地にあった。部屋が歪んで回転するあのアトラクションに乗った気分だった。
『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』
ゴッホがアルルに行く前の、パリにいたころの作品。けだるい午後の川べりのレストランを淡い色彩で描いた静かで、どこか懐かしい感じのする絵だった。
もしかするとゴッホが14歳年上の女性アゴスティーナと交際していたころに描いたのだろうか。ゴッホの精神状態が比較的穏やかな時期の作品という印象を受けた。
ゴッホの作品の中でいちばん好きな絵も展示されていた。『星降る夜』。悲しいほど美しい絵だ。
(画像を拝借するわけにはいかないので)参考画像
幸せがすぐそこまで来ているように感じられるとき、人はこんな絵を描くのだろうか。
ただ、それはたんなる幸せの予感ではなく、心のどこかで、いつか破綻の時が来ることを予感している、そんな脆くて壊れそうな儚い幸福の予感が、この絵からじんじん伝わってくる。
手前の男女は睦まじく語り合う恋人同士と言われているが、わたしには彼らの存在が何かの暗示のように思われた。
このコーナーには他に『《黄色いキリスト》のある自画像』や『タヒチの女たち』などが展示され、画面からゴーギャン・アウラがビームのように照射されていた。
オルセー美術館展:トゥールーズ=ロートレック
第4章 トゥールーズ=ロートレック
ロートレックの作品3点が紹介されていた。
いずれも娼婦や女芸人やダンサーといった、モンマルトルの夜の街で懸命に生きる女性たちがモデル(『黒いボアの女』の職業は不明)。
海千山千、酸いも甘いも噛み分けた女が、ふとした瞬間に見せる倦怠と諦観の入り混じった表情や、女の背中から漂う虚無感が描きつくされていて、妙に共感を誘うのであった。
華やかな歓楽街の裏側を鋭くとらえ、ポスター画の達人ならではのキャッチーな色彩と構図で描きだす。ロートレックにしかできない芸当だろう。
オルセー美術館展:スーラと新印象主義
第2章 スーラと新印象主義
点描画のスーラとシニャックが中心のコーナー。制作年代順に展示されているので、スーラの初期の掃くようなタッチから、しだいに細かい点のようなタッチになっていく点描画法の模索の軌跡が分かって面白かった。
スーラの円熟期に描かれた『ポール=アン=ベッサンの外港、満潮』は、細密な点描といい、水平線と平行に走る防波堤の線とヨットのマストの垂直線と入江のなだらかな曲線が織りなす構図といい、新印象派の真骨頂ともいうべき作品。
ポール・シニャックの『井戸端の女たち』
スーラの亡きあと(この絵が完成したのはスーラが夭折した翌年)「これからは自分が新印象主義を背負っていくぞ!」というシニャックの意気込みを反映するかのように、画面中央から上方の灯台に向かって小道がうねるように勢いよく続いていくのが印象的だった。
その後シニャックの画風はスーラのそれとは少し異なる、独自のスタイルへと変化する。たとえば『マルセイユの港の入口』。
ここでは丸い点の寄せ集めではなく、四角い大まかなタッチで描いたモザイク状の画面となっている(これはフォービズムの画家に受け継がれていくそうだ)。
個人的には、点描画法よりもこのモザイクのような画風のほうが神秘的な雰囲気に包まれていて好きかな。
第3章 セザンヌとセザンヌ主義
セザンヌの静物画やサント=ヴィクトール山など、セザンヌ臭ムンムンのコーナー。
同時代の画家と後世に多大な影響を与えた美術界の革命児、セザンヌ。彼についていろいろと論じられていることを反芻しながら頭で鑑賞し、頭で感動した。
オルセー美術館展:最後の印象派
新国立美術館で開催されているオルセー美術館展に出かけた。平日とはいえかなりの混み具合。日曜美術館で紹介される前だから、これでもマシなほうだろう。この日のお目当ては、おもにルソー、ドニ、そして愛しのモロー。以下は感想・おぼえ書きなど。
第1章 1886年―最後の印象派
1874年に初の印象派展が開かれてから十余年。印象派の画家たちがそれぞれの道を模索するなかで、最後の印象派展(第8回)が開かれる。本章では印象派からポスト印象派への転換期の作品が紹介されていた。
モネやドガ、シスレーなど「ザ・印象派」という作品が多いなかでいちばん印象に残ったのは、モネの有名な『日傘の女性』。
モネは日傘をさす女の絵を少なくとも3枚描いたとされている。
1枚目のモデルは、彼の最初だった妻カミーユ(とその後方に息子のジャン)。
光あふれる空を背景にして、日傘をさしてこちらを振り向く絵の中の女性は、その顔まではっきりと映し出されている。
他の2枚が描かれたのは、その11年後の1886年。
カミーユはすでに病死していたため(享年32歳)、モデルは2番目の妻アリスの連れ子だったシュザンヌだと言われている。
今回展示されていたのはこのシュザンヌの絵のほうで、顔はぼかされ、誰なのか判別がつかない。モネが女性の顔をぼかして描いた理由については諸説あるが、やはり亡き妻への追慕から、このような表現にしたのではないだろうか。
陽炎の彼方に浮かぶ思い出の世界。印象派特有の茫漠とした光と色の表現から、現実とも虚構ともつかない世界が生み出される。
モネは追想や夢の中に現れるカミーユの姿をこの絵に投影したのかもしれない。
カミーユは亡くなる数年前から地獄を味わった。
モネとカミーユの家庭に、のちにモネの2番目の妻となるアリスとその子どもが転がり込んだのだ。カミーユは病に伏せながら(子宮がんだったとされている)、夫の愛人と同居するという辛い三角関係の中で過ごさねばならなかった。精神的な苦痛を紛らわすためだろうか、彼女は日増しに衰弱していく中でアルコールに溺れ、意識不明のままこの世を去る。
モネは自責の念にかられ、あの世に旅立ったカミーユはモネの永遠のミューズとなった。
モネは比較的若いころから白内障を患っていたとされる。
彼の目に映る現実はすべて彼の心象風景だった。
すべての輪郭はぼやけ、曖昧模糊とした世界の中で、モネは自分が見たいものを見、見たくないものは見なかった。見たいものしか見ないことで周囲の誰かを傷つけても、それが彼の目に映る現実であり、創作の源だった。
愛する人を裏切り、傷つけ、苦しませておきながら、その死後に永遠の存在として崇拝し、愛慕する人間の身勝手さ、愚かさ、そしてそれゆえに生み出されたこの絵の美しさ。絵から漂うとらえどころのない哀愁が心に残った。
参考画像
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