2010年5月20日木曜日

究極の幸福論――『孤独と人生』

              
「なんぴとも完全におのれ自身であることが許されるのは、
 その人が一人でいるときだけである。」
                    ――ショーペンハウアー

 この春、さまざまな別れがあった。なかにはかけがえのない人との離別もあったが、それはわたしがみずから選んだ別れでもあった。

 決断する前は、もう一度自分の足で立てるのか、立って歩けるのか、孤独に耐えきれるのかと不安ばかりがつのったが、別れが現実のものになると、思いのほか孤独を心地よく感じることができた。

 それは干渉からの逃亡であり、束縛からの解放であり、依存からの脱出だった。

 それでも時折、寂しさはやってくる。
 わたしの人生から消え去ったその人に、いつしか心のなかで語りかけている自分がいた。



 ショーペンハウアーの『孤独と人生』(金森誠也訳、白水社)を手に取ったのは、そうしたころだった。上記エピグラフの一節に続いて、彼はこのように述べている(金森訳をそのまま引用)。

「したがって孤独を愛さないものは、自由をも愛していない。強制はあらゆる社会と切り離すことのできない同伴者である。またいかなる社会でも犠牲を求めるが、これは個性が強い人ほど耐えがたいものとなる。こうした事情から、だれしもおのれ自身にどのくらいの価値をおいているかということと正確な割合で、孤独から逃げ、あるいは孤独に耐え、もしくは孤独を愛するようになる。」

 そう、孤独ほど自由なものはない。

 だがここで、ふと思う。私が意味する孤独と、ショーペンハウアーの意味する孤独とは、果たして同じものだろうか。
 彼は言う。

「若者はその主たる学問として、孤独に耐えることを学ぶべきである。それはこれこそが幸福と心の平穏のみなもとだからである。――これらすべてのことからいえるのは、ただおのれ自身だけにたより、おのれ自身がすべてのもののなかですべてでありうるものが、もっともすぐれたものであるということだ。(中略)それにおのれ自身にそなわるものが多ければ多いほど、その人にとって他人はそれだけますます問題にならなくなってくる。おのれのなかに価値と富をひめる人が他人と交渉するにあたって、彼らの求める重大な犠牲を提供することを拒むこと、まして自己否定を発揮して、こうした犠牲をみずから求めようとはけっしてしないことは、おのれ自身で足れりとする満足感があるからである。」



 さすがは孤独の上級者! ここまで孤独をきわめるのは容易ではないだろうが、「おのれ自身で足れり」とする生き方にはあこがれる。
 ショーペンハウアーの孤独感はわたしにとって、どんな成功法則よりも今の気持ちにピッタリくる究極の幸福論である。