ミュージアムショップの窓から見た丸の内のオフィス街。
外に出ると、日がとっぷり暮れていた。
(つづき)
第Ⅲ部は「マネとパリ生活」。
マネの作品以外にも、19世紀後半のパリの風俗をあらわす絵画や写真、建築物の円柱や柱頭の彫刻が展示されていた。
オペラ座やテュイルリー宮での仮面舞踏会をテーマにした作品も多く、そのなかでひときわ目を引いたのが、ジャン・ベローの『夜会』だった。http://www.slayers.ne.jp/~luke/winslow/cw240.jpg
絵に描かれた夜会の華やかさ、美しさは素晴らしく、しばしうっとりと見入ったが、やはり注目すべきは貴婦人たちの、コルセットによって異様なまでに締め付けられたくびれた腰だろう。 コルセットとコルセットによる人体への悪影響については、小倉孝誠の『女らしさの文化史』のなかで詳述されている(解説ではこのベローの『夜会』が、コルセットという風習の好例として紹介されている)。
蟻か蜂のようにくびれたこの腰は、絵画による誇張ではない。その証拠に同じコーナーに展示されていたアンリ・ルモワンヌの写真『競馬場、観客たち』にも、当時の美の基準に適うよう、腰を(拷問のごとく)人工的に締め付けられた女性たちの姿が写っている。
常々疑問に思っていたのだけれど、このコルセットで締め付けられた女性の腰は、コルセットを外した時も、かなり変形していたのではないだろうか。
この時期さまざまな裸婦像が描かれているが、わたしの知る限り、いずれもごく普通の、ナチュラルにくびれた腰の裸婦ばかりで、人工的に締め付けられた跡などはまったく見られない。 現在の(日本女性の)基準からすれば、当時のフランス女性はどちらかというと豊満なウエストをしていたように思う。 それをあれだけ不自然な形で締め付けるのだから(当時の小説などで気絶する女性やヒステリーの発作を起こす女性が多く登場するのは、コルセットのせいだという説もあるほど)、コルセットを外した場合、うっ血による痣ができていたり、変形していたりしてもおかしくはないはずだ。
それなのに変形した腰を描いた絵画を目にすることがあまりないのは、写実主義絵画の隆盛と時を同じくして、コルセットの文化が衰退していったからなのだろうか。
纏足(てんそく)を外した中国女性の足の写真を見たことがあるが、グロテスクに変形していて恐ろしいほどだった。時代とともに美の基準も変遷するとはいえ、あれをエロティックと感じるとは……(あくまで裸足ではなく、「小さな沓をはいた」足にエロスを感じたのだと思うが、それにしても沓のなかは膿みただれて悪臭を放っていたというから、人の美意識(ここまでくると、もはやフェティシズムというべきか?)というものは摩訶不思議である)。
昔、『ピアノレッスン』というオーストラリアの映画で、ヒロインがコルセットを脱がされていくシーンがあったが、これとてヒロインの裸体は、皺ひとつ、痣ひとつない、正常な裸体だった(映像の審美性からそうなったのかもしれないが。ちなみに、このヒロインを演じたホリー・ハンターって、マネの『オランピア』に似ていると思うのは、わたしだけ?)。
美術館の中庭は噴水もあって夕涼みにぴったり。
復元された昭和初期の趣のある建物。
三菱一号館美術館http://mimt.jp/
2010年7月28日水曜日
聖女か悪女か:モリゾとムーラン
渡り廊下から見た美術館の中庭。
廊下の窓から見下ろしたカフェのある中庭。
(昨日のつづき)
第二部には、この展覧会の目玉でもあるベルト・モリゾをモデルにした作品がいくつか展示されていた。 いずれも黒衣のモリゾだが、印象はかなり異なる。
1868年(日本では明治維新が起きた年)、マネは、ルーブル美術館でルーベンスの模写をしていたモリゾに出会う。それから4年後に描かれたのが、、マネの最高傑作のひとつ、『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3774。 お嬢様育ちで、画才に恵まれたモリゾの、愛らしくも高貴なまなざしと、無垢で清らかな美しさを見事にとらえた作品だ。
帽子もドレスもスカーフも、全身黒ずくめで、黒を多用しているのにもかかわらず、斜めから射し込む光とモリゾの穏やかなみずみずしさのおかげで、暗さをみじんも感じさせない。それどころか、画面は夢や希望や生気であふれている。 あどけない表情で描かれているが、このときモリゾはすでに30代。 モリゾそのものの姿というよりも、画家がとらえた彼女の若々しく愛くるしい印象が描かれているのだろう。
実際、彼女自身の性格はどちらかというと、神経質で、しばしば鬱症状にも悩まされていたらしい。 そうした彼女の内面の奥深さや苦悩を垣間見ることができるのが、『扇を持つベルト・モリゾ』だ。http://www.fineartprintsondemand.com/artists/manet/berthe_morisot_holding_a_fan.htm『すみれの花束をつけた』からわずか2年後の作品だが、まさに黒衣の婦人というべき、憂いをたたえた大人びた表情で描かれている(このときモリゾは33歳なので、おそらくこちらの絵の方がモリゾ本来の姿に近いのかもしれない。ちなみにモリゾ自身は、同じく今回展示されていた『横たわるベルト・モリゾの肖像』を、「最も自分に似ている作品」と語っている)。
『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』はいつまでも見ていたくなるような素敵な絵だが、ややアンニュイな雰囲気を持つ『扇を持つベルト・モリゾ』のほうに、わたしはより魅力を感じるようだ。
マネとベルト・モリゾとの関係については、恋仲であったとか、いろいろ取り沙汰されているが、本当のところはどうだったのだろう。 マネにとってモリゾは大切な存在だったし、絵からも彼の彼女に対する慈愛の情が伝わってくる。
だが、どちらかといえば(これはわたしの勝手な想像であり、願望でもあるが)、モリゾはマネにとって愛おしくも、犯しがたい女性であり、画家としても尊敬すべき相手だったのではないだろうか。 二人の関係がプラトニックなものにとどまっていたからこそ、モリゾはマネの弟、ウジェーヌと結婚して幸せな家庭を築くことができたし、ウジェーヌも彼女の夫として、そしてモリゾの絵の最大の理解者として、結婚後も彼女の創作活動を応援し続けたのではないだろうか。
いずれにしろ、モリゾは裕福で満ち足りた家庭生活を送りながら、自分の姉や娘をモデルにした温かみのある作品を数多く残している。
いっぽう、マネが最も愛したもうひとりのモデル、ヴィクトリーヌ・ムーランも画家を志し、1876年にはサロンに入選するが、その後は酒に溺れ、困窮した生活を送ったという。 なんとなく「モンパルナスのキキ」ことアリス・プランを髣髴とさせるエピソードだ。 時代を切り拓いた芸術家のミューズたちの悲しい末路。 だからこそ、朽ちて滅びていく前のその煌めく姿を映しとった作品――画家が切り取ったモデルの人生の一瞬のかけら――には、名状しがたいある種の生命力のようなものが宿っているのかもしれない。 (つづく)
廊下の窓から見下ろしたカフェのある中庭。
(昨日のつづき)
第二部には、この展覧会の目玉でもあるベルト・モリゾをモデルにした作品がいくつか展示されていた。 いずれも黒衣のモリゾだが、印象はかなり異なる。
1868年(日本では明治維新が起きた年)、マネは、ルーブル美術館でルーベンスの模写をしていたモリゾに出会う。それから4年後に描かれたのが、、マネの最高傑作のひとつ、『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3774。 お嬢様育ちで、画才に恵まれたモリゾの、愛らしくも高貴なまなざしと、無垢で清らかな美しさを見事にとらえた作品だ。
帽子もドレスもスカーフも、全身黒ずくめで、黒を多用しているのにもかかわらず、斜めから射し込む光とモリゾの穏やかなみずみずしさのおかげで、暗さをみじんも感じさせない。それどころか、画面は夢や希望や生気であふれている。 あどけない表情で描かれているが、このときモリゾはすでに30代。 モリゾそのものの姿というよりも、画家がとらえた彼女の若々しく愛くるしい印象が描かれているのだろう。
実際、彼女自身の性格はどちらかというと、神経質で、しばしば鬱症状にも悩まされていたらしい。 そうした彼女の内面の奥深さや苦悩を垣間見ることができるのが、『扇を持つベルト・モリゾ』だ。http://www.fineartprintsondemand.com/artists/manet/berthe_morisot_holding_a_fan.htm『すみれの花束をつけた』からわずか2年後の作品だが、まさに黒衣の婦人というべき、憂いをたたえた大人びた表情で描かれている(このときモリゾは33歳なので、おそらくこちらの絵の方がモリゾ本来の姿に近いのかもしれない。ちなみにモリゾ自身は、同じく今回展示されていた『横たわるベルト・モリゾの肖像』を、「最も自分に似ている作品」と語っている)。
『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』はいつまでも見ていたくなるような素敵な絵だが、ややアンニュイな雰囲気を持つ『扇を持つベルト・モリゾ』のほうに、わたしはより魅力を感じるようだ。
マネとベルト・モリゾとの関係については、恋仲であったとか、いろいろ取り沙汰されているが、本当のところはどうだったのだろう。 マネにとってモリゾは大切な存在だったし、絵からも彼の彼女に対する慈愛の情が伝わってくる。
だが、どちらかといえば(これはわたしの勝手な想像であり、願望でもあるが)、モリゾはマネにとって愛おしくも、犯しがたい女性であり、画家としても尊敬すべき相手だったのではないだろうか。 二人の関係がプラトニックなものにとどまっていたからこそ、モリゾはマネの弟、ウジェーヌと結婚して幸せな家庭を築くことができたし、ウジェーヌも彼女の夫として、そしてモリゾの絵の最大の理解者として、結婚後も彼女の創作活動を応援し続けたのではないだろうか。
いずれにしろ、モリゾは裕福で満ち足りた家庭生活を送りながら、自分の姉や娘をモデルにした温かみのある作品を数多く残している。
いっぽう、マネが最も愛したもうひとりのモデル、ヴィクトリーヌ・ムーランも画家を志し、1876年にはサロンに入選するが、その後は酒に溺れ、困窮した生活を送ったという。 なんとなく「モンパルナスのキキ」ことアリス・プランを髣髴とさせるエピソードだ。 時代を切り拓いた芸術家のミューズたちの悲しい末路。 だからこそ、朽ちて滅びていく前のその煌めく姿を映しとった作品――画家が切り取ったモデルの人生の一瞬のかけら――には、名状しがたいある種の生命力のようなものが宿っているのかもしれない。 (つづく)
2010年7月27日火曜日
ポーの『大鴉』(マラルメ訳)の挿絵
美術館の廊下の天井。
各展示室をつなぐクラシカルな廊下。
(前回からのつづき)
第Ⅱ部は「親密さの中のマネ:家族と友人たち」。
ボードレールやエミール・ゾラ、エドガー・アラン・ポー、マラルメなど、社交的で才能あふれるマネの幅広い交友関係を伝えるコーナーだった。
非常に興味深かったのが、マラルメが仏訳したポーの詩『大鴉』の挿絵である。
ポー、マラルメ、マネという超豪華メンバーによるこの超豪華仏訳書は、現在60部の現存が確認されており、1部(なんと!)1500万円ほどの値がつくこともあるという。
この本の出版秘話については『マラルメの「大鴉」―エドガー・A・ポーの豪華詩集が生れるまで 』(バックナム著、柏倉康夫訳著)に詳しい。
版元社長兼編集者の書簡にもとづいて編集されたこの本には、締め切りをちっとも守らない訳者(マラルメ)および画家(マネ)に泣かされ、書評で酷評され(直訳調だったらしい)、さっぱり売れないまま、刊行の1年半後に版元が破産するというドタバタ悲劇がつづられている。
ちなみに日本にも日夏耿之介訳、ギュスターヴ・ドレ挿画という、仏版に勝るとも劣らない豪華な『大鴉』が存在する(薔薇十字社版、出帆社版などいくつかの版があるが、最近では2005年に沖積舎から刊行されている。『院曲サロメ』もそうだけど、こういう復刻はうれしい限り)。 (つづく)
各展示室をつなぐクラシカルな廊下。
(前回からのつづき)
第Ⅱ部は「親密さの中のマネ:家族と友人たち」。
ボードレールやエミール・ゾラ、エドガー・アラン・ポー、マラルメなど、社交的で才能あふれるマネの幅広い交友関係を伝えるコーナーだった。
非常に興味深かったのが、マラルメが仏訳したポーの詩『大鴉』の挿絵である。
ポー、マラルメ、マネという超豪華メンバーによるこの超豪華仏訳書は、現在60部の現存が確認されており、1部(なんと!)1500万円ほどの値がつくこともあるという。
この本の出版秘話については『マラルメの「大鴉」―エドガー・A・ポーの豪華詩集が生れるまで 』(バックナム著、柏倉康夫訳著)に詳しい。
版元社長兼編集者の書簡にもとづいて編集されたこの本には、締め切りをちっとも守らない訳者(マラルメ)および画家(マネ)に泣かされ、書評で酷評され(直訳調だったらしい)、さっぱり売れないまま、刊行の1年半後に版元が破産するというドタバタ悲劇がつづられている。
ちなみに日本にも日夏耿之介訳、ギュスターヴ・ドレ挿画という、仏版に勝るとも劣らない豪華な『大鴉』が存在する(薔薇十字社版、出帆社版などいくつかの版があるが、最近では2005年に沖積舎から刊行されている。『院曲サロメ』もそうだけど、こういう復刻はうれしい限り)。 (つづく)
スペイン趣味とレアリスム:1850-60年代
(前回からのつづき)
第Ⅰ部は「スペイン趣味とレアリスム:1850-60年代」。
この時期マネは、当時流行していた「スペイン趣味」の洗礼を受け、スペイン的な主題を描いた作品を数多く残している。
特に印象深いのが『死せる闘牛士』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3840や『闘牛』
http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3780 などの闘牛シリーズ。
1965年秋、ゴヤやエル・グレコ、ベラスケスら巨匠たちの作品を見るために、マネは単身スペインを訪れたが、スペインの風土と食事が合わなかったため、わずか10日間でパリに戻っている。その間、闘牛場に何度か足を運んではスケッチにいそしみ、帰国後には、それをもとに残虐かつドラマティックな闘牛シーンの作品を描いた。
マネが描く闘牛場のシーンは、スペイン特有のあのギラつく日射しと、観客席から立ちのぼる血に餓えた興奮と熱狂、死と栄誉の狭間で敗れた闘牛士の無残な骸(むくろ)が強烈な対比として描かれている。
いっぽう、『死せる闘牛士』は、もとは『闘牛場での出来事』という群像を描いた作品を、闘牛士の骸だけを切り離したもの(切り離されたもう片方の作品には、まるで闘牛士が復活したかのように、緊迫した闘牛シーンが描かれ、別の作品として仕上がっている)。
人々の興奮や欲望、憤る牛といった「動」の部分をすべて取り除いた『死せる闘牛士』の画面を支配するのは、完全なる「静」であり、厳粛な死の世界である。 肩幅が広く、胸板の厚い、まだみずみずしい充実した肉体を感じさせるその屍は、一瞬をついて訪れた「死」という厳然たる現実を際立たせている。
*******
この時期マネは、お気に入りのモデルのひとり、ヴィクトリーヌ・ムーランと出会う。
1862年、最高裁判所前の広場の人ごみのなかで、マネは不思議な魅力を持つひとりの女性に目を留めた。以来、マネが引き出したヴィクトール・ムーランの強烈な個性と、マネの斬新な画風と色彩感覚とが相まって、『草上の昼食』(1863年)や『オランピア』(1865年)など、時代を象徴するセンセーショナルな名画が次々と生み出されていった。
今回の展覧会では、(パンフレットの表紙画にも使われているように)ベルト・モリゾがヒロインとなっているため、ヴィクトリーヌ・ムーランは脇役に徹しているというか、ムーランがモデルになっている作品は少なかった。
そんななか、珍しく、それほどスキャンダラスではない画題で描かれていたのが、『街の女歌手』だ。http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3857(この画像では赤っぽく写っているため、原画の見事な色彩が映し出されていないのが残念。)
この絵はもともとマネが、ひとりの女性を街角で見かけて、モデルになってほしいと声をかけたが断られたために、ムーランが代わりを務めたものだが、着衣のムーランをモデルにした絵のなかでは最も美しい作品だと思う。
黒い背景のなかに浮かぶ、暗く渋い緑のドレス。 ドレスの黒い縁取りと、黄色い包み紙、ルビーのように赤いサクランボが、じつに効果的に配され、ムーランの意志の強そうな個性的な顔立ちを引き立たせている。マネの絶妙な色彩感覚を物語る一枚だ。
このコーナーには、マネの日本趣味が存分に生かされた『エミール・ゾラ』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3812 や、気球や大道芸人など、いかにも19世紀後半のパリらしい風物を描いたエッチングやリトグラフ、淡彩画も展示されていた。 (つづく)
第Ⅰ部は「スペイン趣味とレアリスム:1850-60年代」。
この時期マネは、当時流行していた「スペイン趣味」の洗礼を受け、スペイン的な主題を描いた作品を数多く残している。
特に印象深いのが『死せる闘牛士』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3840や『闘牛』
http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3780 などの闘牛シリーズ。
1965年秋、ゴヤやエル・グレコ、ベラスケスら巨匠たちの作品を見るために、マネは単身スペインを訪れたが、スペインの風土と食事が合わなかったため、わずか10日間でパリに戻っている。その間、闘牛場に何度か足を運んではスケッチにいそしみ、帰国後には、それをもとに残虐かつドラマティックな闘牛シーンの作品を描いた。
マネが描く闘牛場のシーンは、スペイン特有のあのギラつく日射しと、観客席から立ちのぼる血に餓えた興奮と熱狂、死と栄誉の狭間で敗れた闘牛士の無残な骸(むくろ)が強烈な対比として描かれている。
いっぽう、『死せる闘牛士』は、もとは『闘牛場での出来事』という群像を描いた作品を、闘牛士の骸だけを切り離したもの(切り離されたもう片方の作品には、まるで闘牛士が復活したかのように、緊迫した闘牛シーンが描かれ、別の作品として仕上がっている)。
人々の興奮や欲望、憤る牛といった「動」の部分をすべて取り除いた『死せる闘牛士』の画面を支配するのは、完全なる「静」であり、厳粛な死の世界である。 肩幅が広く、胸板の厚い、まだみずみずしい充実した肉体を感じさせるその屍は、一瞬をついて訪れた「死」という厳然たる現実を際立たせている。
*******
この時期マネは、お気に入りのモデルのひとり、ヴィクトリーヌ・ムーランと出会う。
1862年、最高裁判所前の広場の人ごみのなかで、マネは不思議な魅力を持つひとりの女性に目を留めた。以来、マネが引き出したヴィクトール・ムーランの強烈な個性と、マネの斬新な画風と色彩感覚とが相まって、『草上の昼食』(1863年)や『オランピア』(1865年)など、時代を象徴するセンセーショナルな名画が次々と生み出されていった。
今回の展覧会では、(パンフレットの表紙画にも使われているように)ベルト・モリゾがヒロインとなっているため、ヴィクトリーヌ・ムーランは脇役に徹しているというか、ムーランがモデルになっている作品は少なかった。
そんななか、珍しく、それほどスキャンダラスではない画題で描かれていたのが、『街の女歌手』だ。http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3857(この画像では赤っぽく写っているため、原画の見事な色彩が映し出されていないのが残念。)
この絵はもともとマネが、ひとりの女性を街角で見かけて、モデルになってほしいと声をかけたが断られたために、ムーランが代わりを務めたものだが、着衣のムーランをモデルにした絵のなかでは最も美しい作品だと思う。
黒い背景のなかに浮かぶ、暗く渋い緑のドレス。 ドレスの黒い縁取りと、黄色い包み紙、ルビーのように赤いサクランボが、じつに効果的に配され、ムーランの意志の強そうな個性的な顔立ちを引き立たせている。マネの絶妙な色彩感覚を物語る一枚だ。
このコーナーには、マネの日本趣味が存分に生かされた『エミール・ゾラ』http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=3812 や、気球や大道芸人など、いかにも19世紀後半のパリらしい風物を描いたエッチングやリトグラフ、淡彩画も展示されていた。 (つづく)
2010年7月26日月曜日
Manet et le Paris moderne
19世紀末にコンドルが設計した煉瓦造りのオフィスビル、
『三菱一号館』を忠実に再現した美術館の外観。
内装も忠実に再現されたエントランスロビーの扉飾り。
弥が上にも期待が高まる。
(つづく)
2010年6月27日日曜日
水の女神と真景累ヶ淵
土曜日の早朝、珍しく早起きしたので散歩に出てみました。
誰もいない教会。
インドの水の女神サラスヴァティー(Sarasvati)に由来する弁財天。
池の向こうに祠があります。
サラスヴァティーの化身であり使いでもある蛇が
狛犬代わりに、左右に祀られています。
(弁財天像の中には、人頭蛇身のものもあるようです。)
武蔵野の面影が残る緑地。
真景累ヶ淵の舞台のような水辺。
カモさんのカップルを見かけたのですが、
葦の茂みに隠れてしまいました。
今にも沼底から幽霊の手が伸びてきそう。
そんなふうに思うのは神経のせいでしょうか。
道端に自生する可憐な朝顔。
紫陽花も朝露を帯びてすがすがしい。
2010年6月25日金曜日
釣瓶水指:見立ての美
六月最後の木曜日の夜、今年二回目のお茶の稽古へ。
今日のお花は半夏生と筋擬宝珠。
(上の葉をもう少しバッサリ切ればよかったかも。)
梅雨の晴れ間の暑い日でした。紺地に撫子柄の綿紅梅の浴衣で出席です。月に一度の女の子の日だったので、帯もラクに作り帯にしました。
今日のお点前は「釣瓶」。
名水を汲んできて茶を点てる「名水点」ではないため(公民館の水道水です)注連飾りはなく、水で十分に湿らせた木地の釣瓶水指を使ったお稽古でした。
注連飾りがなくとも、しっとりと水を含んだ釣瓶水指は、見た目にも涼しげ。これがあるだけで茶室内は一気に夏らしくなります。
昔は水が貴重だったし、空調もなかったから、いかにも「井戸からたったいま汲み上げたばかり」というフレッシュ感と清涼感の漂う釣瓶水差は、いま以上に高い演出効果を生み出したことでしょう。客人をもてなす強力なアイテムだったのではないでしょうか。
武野紹鴎の門下だった薮内剣仲が興した茶道の流派に薮内流があり、五代目・薮内竹心が江戸中期に著した『源流茶話』には次のような一文があります。
古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光 備前・しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎、釣瓶の水指を好ミ出され、利休ハまけ物、極侘は片口をもゆるされ候。
つまり薮内竹心によると、井戸の釣瓶を水指として初めて使ったのは武野紹鴎ということになります。
しかし、釣瓶を水屋で初めて使ったのは武野紹鴎だけれど、水差として採用したのは見立ての天才・利休であるとする説もあり(こちらのほうが一般的か?)、釣瓶水差の発案者が誰なのかは本当のところわかっていません。
いずれにしろ、井戸の釣瓶を水差に使うという豊かな発想と、それを茶の湯の世界の夏の風物詩として受け継いでいく日本人の感性って、ほんとうに素敵だなあと思います。
青苔を模したお菓子。
夏には他にも、七夕にちなんだ梶の葉(昔は短冊ではなく、梶の葉に願い事を詠んだ和歌をしたためた)を水差の蓋に見立てた「葉蓋」や、水の音が涼しげな「洗い茶巾」など、涼を呼ぶ風流な点前がいろいろあります。 暑い季節だからこそ、それを愉しむために、点前や道具にさまざまな工夫が凝らされているのですね。
2010年6月21日月曜日
『ほろにが菜時記』:花菖蒲は菖蒲ではない!
曇り空の日曜日、図書館の帰りに近くの公園に寄ってみました。
ここは花菖蒲園としても知られる公園。
見頃はもう過ぎてしまったみたい。
紫陽花はこれから。曇天くらいがちょうどきれいでした。
アヤメとカキツバタと花菖蒲は紛らわしく、素人目には見分けるのは難しい。でも紛らわしいのはそれだけではなかったようです。
邪気をはらうために端午の節句に入る菖蒲湯とは、この花菖蒲を湯に入れるものだと、ずっと思っていました。ところが先日、『ほろにが菜時記』(塚本邦雄著、ウェッジ)を読んでいて、それが大きな間違いだったことに気づいたのです。
五月五日に「本日ショーブ湯」と書かれた銭湯のビラに花菖蒲の絵が添えられているのを見かけた著者は、次のように述べています。
もっとも、菖蒲と花菖蒲を混同しているのはこの風呂屋だけではない。戦前の有名な歌人さえ、新古今集の藤原良経作、端午の歌、「うちしめりあやめぞ香る時鳥(ほととぎす)鳴くやさつきの雨の夕暮」を観賞して、「あやめの花のゆかしい香りが云々」と書いているし、今日、「識者」の部類に属すると思われる誰彼の中に、区別をわきまえない人が相当数ある。
菖蒲には花と呼べるような花は咲かない。里芋科の植物だから、里芋の花に似た、白鼠の尻尾のような穂が出るだけである。
菖蒲は花菖蒲にあらず、だったのですね。
この花らしい花をつけない菖蒲は、風呂に入れる以外にも、刻んだ根を酒に浸して「菖蒲酒」にすることもできるし、「菖蒲酢」にして三杯酢に適宜混ぜると独特の風味が楽しめるのだそうです。いったい、どんな味がするのか、挑戦してみたい気もします。
食材とそれをはぐくんだ季節を五感で味わった歌人の繊細な感性が伝わってくるようです。
本書では他にも、百合根やななくさ、鮒鮨、そしてエスプレッソなど、「ほろにがい」味のする食べ物が、みずみずしく洗練された表現で描写されています。
ビールやコーヒーだけでなく、百合根や山菜、川魚の「ほろにがさ」を美味しいと感じるのは、水がきれいな土地に住む日本人ならではの感覚ではないでしょうか。ソースやスパイスの助けを借りずに、素材そのものの良さが引き出され、それを、五感を研ぎ澄まして味わう時に感じるのが「ほろにがさ」だと思うのです。
この本は装幀もとても美しく、岩崎灌園や毛利梅園といった江戸時代のナチュラリストの植物図譜を採用したカバー画や扉画が、塚本邦雄の端麗な文章と見事に調和していて、「紙の本」を繙くときの、あの得も言われぬ悦びを存分に堪能できる丁寧な造りになっています。
それにこの帯文、「アボガードはアボガドではない!」って、面白いですよね。
今では一般的に「アボガド」と称される「avocado(鰐梨)」ですが、著者いわく「アボカード」と発音すべきだそうです(Wikiにもそう書かれていました)。
そういえば、伊丹十三さんも、エッセイ『女たちよ!』の中で同じようなことをおっしゃっていました。彼は「食前の果物」の項でこのように書いています。
カジノ・ロワイヤルという小説のなかで、ジェイムズ・ボンド・ダブル・オウ・セブンが美女と食事をする。その時オードヴルに彼は「鰐梨」を食べる、とある。
わになしとはなんであるか。英語でこれをアヴォカードという。フランス料理の典型的なオードブルであります。
この『女たちよ!』が書かれたのが1960年代の終わりころ。まだアボガドはそれほど普及していなかった時代 で、一部の食通には「鰐梨」あるいは「アヴォカード」と呼ばれていたのでしょうか。
それはともかく、この『女たちよ!』でいちばん面白いのがプレイボーイ伊丹氏の女性論。巻末には彼の理想の女性像がリストアップされています。その一部をあげると、
「贅沢に育てられ品があり」、「しかも貧乏を恐れず」、「化粧せずとも愛らしく」、「自分の美しさに気づいてなく」、「話下手にして聞き上手」、「ものを欲しがらずに、そしてもらえばすこぶる喜んで」、「甘えん坊で、しつこくなく」、「なよなよとして、しかも毅然としたところがあり」、「頭がよくて、しかも馬鹿なところがあり」、「献身的で、恩着せがましくなく」、「年をとっても美しく」という具合。
伊丹氏が理想の結婚相手に求めるハードルは富士山よりも高く、そんな女性いるわけないと思っていました。でも続編の『再び女たちよ!』によると、これらの条件をすべてクリアした女性を氏は数人見つけたそうです(彼のほうが彼女たちのお眼鏡にかなわなかったという、伊丹さんらしいスマートなオチでした)。
こんな女性が本当にいたら素敵だと思います。でも現実は惚れたら最後、条件なんか吹っ飛ぶのかもしれません。恋は盲目、あばたもえくぼ、鰐梨も洋梨に見えてしまう。それがたぶん、幸せな錯覚にもとづく幸せな結婚なのでしょう。 あくまで私見ですが。
ここは花菖蒲園としても知られる公園。
見頃はもう過ぎてしまったみたい。
紫陽花はこれから。曇天くらいがちょうどきれいでした。
アヤメとカキツバタと花菖蒲は紛らわしく、素人目には見分けるのは難しい。でも紛らわしいのはそれだけではなかったようです。
邪気をはらうために端午の節句に入る菖蒲湯とは、この花菖蒲を湯に入れるものだと、ずっと思っていました。ところが先日、『ほろにが菜時記』(塚本邦雄著、ウェッジ)を読んでいて、それが大きな間違いだったことに気づいたのです。
五月五日に「本日ショーブ湯」と書かれた銭湯のビラに花菖蒲の絵が添えられているのを見かけた著者は、次のように述べています。
もっとも、菖蒲と花菖蒲を混同しているのはこの風呂屋だけではない。戦前の有名な歌人さえ、新古今集の藤原良経作、端午の歌、「うちしめりあやめぞ香る時鳥(ほととぎす)鳴くやさつきの雨の夕暮」を観賞して、「あやめの花のゆかしい香りが云々」と書いているし、今日、「識者」の部類に属すると思われる誰彼の中に、区別をわきまえない人が相当数ある。
菖蒲には花と呼べるような花は咲かない。里芋科の植物だから、里芋の花に似た、白鼠の尻尾のような穂が出るだけである。
菖蒲は花菖蒲にあらず、だったのですね。
この花らしい花をつけない菖蒲は、風呂に入れる以外にも、刻んだ根を酒に浸して「菖蒲酒」にすることもできるし、「菖蒲酢」にして三杯酢に適宜混ぜると独特の風味が楽しめるのだそうです。いったい、どんな味がするのか、挑戦してみたい気もします。
食材とそれをはぐくんだ季節を五感で味わった歌人の繊細な感性が伝わってくるようです。
本書では他にも、百合根やななくさ、鮒鮨、そしてエスプレッソなど、「ほろにがい」味のする食べ物が、みずみずしく洗練された表現で描写されています。
ビールやコーヒーだけでなく、百合根や山菜、川魚の「ほろにがさ」を美味しいと感じるのは、水がきれいな土地に住む日本人ならではの感覚ではないでしょうか。ソースやスパイスの助けを借りずに、素材そのものの良さが引き出され、それを、五感を研ぎ澄まして味わう時に感じるのが「ほろにがさ」だと思うのです。
この本は装幀もとても美しく、岩崎灌園や毛利梅園といった江戸時代のナチュラリストの植物図譜を採用したカバー画や扉画が、塚本邦雄の端麗な文章と見事に調和していて、「紙の本」を繙くときの、あの得も言われぬ悦びを存分に堪能できる丁寧な造りになっています。
それにこの帯文、「アボガードはアボガドではない!」って、面白いですよね。
今では一般的に「アボガド」と称される「avocado(鰐梨)」ですが、著者いわく「アボカード」と発音すべきだそうです(Wikiにもそう書かれていました)。
そういえば、伊丹十三さんも、エッセイ『女たちよ!』の中で同じようなことをおっしゃっていました。彼は「食前の果物」の項でこのように書いています。
カジノ・ロワイヤルという小説のなかで、ジェイムズ・ボンド・ダブル・オウ・セブンが美女と食事をする。その時オードヴルに彼は「鰐梨」を食べる、とある。
わになしとはなんであるか。英語でこれをアヴォカードという。フランス料理の典型的なオードブルであります。
この『女たちよ!』が書かれたのが1960年代の終わりころ。まだアボガドはそれほど普及していなかった時代 で、一部の食通には「鰐梨」あるいは「アヴォカード」と呼ばれていたのでしょうか。
それはともかく、この『女たちよ!』でいちばん面白いのがプレイボーイ伊丹氏の女性論。巻末には彼の理想の女性像がリストアップされています。その一部をあげると、
「贅沢に育てられ品があり」、「しかも貧乏を恐れず」、「化粧せずとも愛らしく」、「自分の美しさに気づいてなく」、「話下手にして聞き上手」、「ものを欲しがらずに、そしてもらえばすこぶる喜んで」、「甘えん坊で、しつこくなく」、「なよなよとして、しかも毅然としたところがあり」、「頭がよくて、しかも馬鹿なところがあり」、「献身的で、恩着せがましくなく」、「年をとっても美しく」という具合。
伊丹氏が理想の結婚相手に求めるハードルは富士山よりも高く、そんな女性いるわけないと思っていました。でも続編の『再び女たちよ!』によると、これらの条件をすべてクリアした女性を氏は数人見つけたそうです(彼のほうが彼女たちのお眼鏡にかなわなかったという、伊丹さんらしいスマートなオチでした)。
こんな女性が本当にいたら素敵だと思います。でも現実は惚れたら最後、条件なんか吹っ飛ぶのかもしれません。恋は盲目、あばたもえくぼ、鰐梨も洋梨に見えてしまう。それがたぶん、幸せな錯覚にもとづく幸せな結婚なのでしょう。 あくまで私見ですが。
2010年6月18日金曜日
『語りかける風景』展:『ミューズ』から20年後のマルト
梅雨入り前の先週の金曜日の夜、Bunkamuraミュージアムで開催されている 『語りかける風景』展に出かけた。
展示作品はいずれもストラスブール美術館所蔵のもの。
フランスとドイツの国境付近に位置するストラスブールは、かつては神聖ローマ帝国(ドイツ)の交通の要衝として栄えたが、ルイ14世時代にはフランスの統治下に置かれ、さらに普仏戦争で再びドイツ(プロイセン)領になり、第一次世界大戦後にはフランス領に奪回され、そして第二次世界大戦中にはドイツに占領され、大戦後にフランス領となって今に至るという、波乱の歴史を持っている。
今回の展覧会では、フランス・アルザス地方とドイツ・バイエルンという、それぞれ独特の持ち味のある地域の絵画を見ることができた。
* * *
19世紀の絵画が中心の本展覧会は6つのコーナーで構成されている。
最初のコーナーが《窓からの風景》。
15世紀に窓によって切り取られた屋外の一部が絵画作品の中に導入されたのが、風景画の原点だと解説には書かれていた。
画家の意図と心情が風景画にしだいに込められるようになっていったそうである。
ここで印象に残ったのが、モーリス・ドニの『内なる光』。
先日、ドニの『ミューズ』についてオルセー美術館展の項(http://yumenokyusaku.blogspot.com/2010/06/blog-post_2134.html)で述べたが、本作品は同じ女性(ドニの妻マルト)をモデルにしたもので、『ミューズ』からおよそ20年後(1914年頃)に描かれた作品。
『ミューズ』ではそのタイトル通り、装飾的な森を背景にこの世ならぬ厳かで優美な姿で描かれたマルトだったが、本作『内なる光』では、大きな窓を開け放した室内で、テーブルについた三人の娘とともに描かれている。平穏な家庭を描いた日常のひとコマだ。
彼女の姿にはかつてのような神秘性は消え、代わりに三人の子を産んで育て上げたという誇りと余裕と貫禄が漂っている。
幸せそうな家族を描いたあたたかみのある作品だが、陰翳と頽廃と幻想に彩られた十九世紀末の終わりを告げるような絵画でもあった。
* * *
次の《人物のいる風景》のコーナーでは、ギュスターヴ・ブリオンの『女性とバラの木』が、人気が高かった(『5時に夢中!』で、ここの学芸員の宮澤政男さんとジョナサンがこの絵の前でコントをやっていた)。
庭に咲き乱れるバラと、その香りを楽しむ青いドレスの若い女性。女性の繊細な上衣のレースとその美しい金髪が陽光に照らされて、明るく輝いている。誰が見てもおそらく綺麗だと思うような、万人受けする絵だった。
このコーナーでわたしが気に入ったのが、ナビ派の画家ヴァロットンの『水辺で眠る裸婦』。
先日行ったオルセー美術館展でも、公園で子どもが遊ぶ姿を平面的に描いた(光と影の対比が面白かった)『ボール』などが展示されていたが、この作品では、葦原に囲まれて横たわる裸婦を前景に大きく配し、後景には川か湖でボートを漕ぐ3人の男が描かれている。『ボール』と同じく、いや、それ以上に平面的で、細部を描き込まない単純化されたポスターのような絵だ。
と思ってみていると、解説には「単純化された形態は木版画家としての経験を通じて身につけられた」と書かれていた。
このコーナーには他にも、ピカソの『闘牛布さばき』が展示されていた。マティスっぽい明るい色彩に荒々しい黒のタッチがルオーを彷彿とされる、ピカソにしては少し変わった絵だった。いろんな画家の画風や要素を取り入れた試験的な作品なのかもしれない。
カンディンスキーやマルクらとともに青騎士を結成したハインリヒ・カンペンドンクの『森』では、いかにもドイツ表現主義らしく、鮮やかだがどこか暗さのある色彩と大胆で力強いフォルムが織りなす世界が構築され、異彩を放っていた。
* * *
3番目が《都市の風景》。前の2つのコーナーはあまり風景画らしくなかったが、ここからしだいに風景画らしくなっていく。
ヨハン=フリードリヒ・ヘルスドルフの『ホバーデンの廃墟』が心に残った。
前景の崖には鹿の親子、その向こうに広がる森の中には朽ちて廃墟となった古城が見え、彼方の地平線には沈みゆく夕日が描かれている。静かだが物語性に満ちた作品だった。
『語りかける風景』展:禅寺で庭を眺めるように
今回、いちばん好きだったのが4番目の《水辺の風景》のコーナー。やはり水のある風景って癒されますね。
月明かりに照らされた森の中の湖にボートを浮かべる人々を描いたイポリット・プラデルの『月明かりのボート遊び』や、セーヌ河とロワン河の交わるサン=マメスをいかにも印象派的な筆致でとらえたシスレーの『セーヌ河畔、あるいはロワン河畔』、ふんわりした白い雲が漂う明るい青空にはカモメが舞い、広い湖にはヨットが浮かぶ穏やかな景色を描いたフランソワ=ルイ・ダヴィド・ボシオン『レマン湖』、いかにも南仏的な色と光をモザイクのような点描技法で表現したシニャックの『アンティブ、夕暮れ』、小舟と草木と空が落ち着いた輝きを宿した鏡のような水面に映るジャン=バティスト・カミーユ・コローの『ヴィル・=ダブレーの池』など、これぞ風景が、というような作品が目白押し。
こうしたなかで、微妙に明度と色調の異なる黒で描かれたマックス・エルンストの『暗い海』が独特のシュールな雰囲気を醸していた。環のようなモチーフはフロッタージュで描かれているそうである。
* * *
次の《田園の風景》では、コローやルソーなどのバルビゾン派やシスレーやモネ、ピサロなどの印象派の画家たちをはじめ、クールベやデュフィなどさまざまな画風の画家たちの風景が紹介されていた。
ここで、というかこの展覧会でいちばん印象に残ったのが、コローの弟子で「靄と露の画家」と評されたアントワーヌ・シャントルイユの『太陽が朝露を飲み干す』だ。
壁一面に広がる巨大な絵である。
前景の水辺には鹿の親子、開けた森の先にある地平線から朝日が昇り、広大な空をプラチナ色に染めている。朝露は描かれていないが、水辺や森に漂う空気がしっとりと水気を含んでいる。
「清々しくしっとりとした朝の空気」がじつに見事に表現されていて、まさに「靄と露の画家」シャントルイユの面目躍如たる作品だった。
それに、この絵の展示の仕方が最高なのだ。絵が長椅子の前に架けられているので、椅子に座ってぼうっと無心になって絵を眺めることができる。
そうやってこの絵をひたすらぼうっと眺めていると、目の前の風景に自分が溶け込んでいくような錯覚さえ覚えてくる。静かな禅寺で庭を眺めているような、穏やかでゆったりとした気分になれるのだ。
おそらくこの、人もまばらな金曜の夜の静かな美術館で、こうして座っている時でしか味わえない感覚なのだろう。いわば「一期一会の感覚」である。
展示の仕方によって、絵と対面したときに受ける感覚や体験が違ってくることを改めて実感した。
Bunkamuraミュージアムは、作品解説がいつも丁寧でこだわりがあるし、来館者の側に立って企画・展示してくださっているように思う。
次回の展示は、『ブリューゲル版画の世界』展らしい。パンフレット(大判でかなり凝ったデザイン)を見たけれど、これもかなり面白そう。
パンフレットを見るだけでワクワクするブリューゲルの世界。
Bunkamuraザ・ミュージアム『語りかける風景』展
http://www.bunkamura.co.jp/museum/index.html
登録:
投稿 (Atom)